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2006年08月11日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)


◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(5)

 対馬・壱岐は、日本列島と朝鮮半島の古代における文化・交易(輸入鉄など)の海上の輸送の経路であり、重要な位置にある。

 ただ地理的形態は全く違い、対馬は『魏志・倭人伝』に「土地は山険しく、深林多く・・・良田無し」とあるように、海面からいきなり山がそそり立つ耕地の少ない山の島だ。それに引き換え、壱岐は山の少ない平坦な島で、耕地になる土地も多く水にも恵まれている。

 また壱岐の原の辻遺跡や唐神遺跡からは、弥生時代の大規模多重環濠集落跡やわが国最古の船着き場跡、床大引き材、人面石、棹ばかりの重り「権(けん)」など第一級品が多数出土している。

 もう一つ対馬・壱岐は、日本の古代史にとって見逃せない重要な意味を持っているのだ。それは、『記・紀』神話や古典神道の成立に与えた影響である。

 卜占は、古代日本では太占(ふとまに)とも呼ばれ、鹿占・亀占など動物の骨を焼き、そのひび割れ状態(占状)で吉凶を占うものである。こうした骨占は古代の北方アジアの諸民族の習俗で、朝鮮半島を経て、対馬・壱岐に伝わり、日本本土にもたらされた(神聖感覚を主体とする原始神道には卜占などはなかったが、対馬・壱岐から伝わった卜占は古典神道に多大な影響を与える)。

 この卜占・骨占という技術によって天の意思(天=テングリの信仰(祭天の古俗)は本来、北方アジアの草原の遊牧民の信仰であったようだ)を知り、地上の王以下に対してその運命を教えたのである(天の信仰・思想とともに卜占・骨占が成立していく)。

 こうした卜占の技術・亀占に優れた者を朝廷に呼ばれ、宮廷祭祀の吏員として登用していく。『大宝律令』制定(701年)のとき、神祇官の職掌名として「卜部」という者が20人(対馬卜部10人、壱岐5人、伊豆5人)登用されていた。

 古典神道の「天つ神」「天(あま・あめ)」的思想は、北方アジアの諸民族の信仰の祭天の古俗、天を祀り天の意思を知るために、王みずからが神主の長となった祭天の古俗に、卜占・骨占を行う習俗の源を見ることができそうだ。

 こうした祭天の古俗は、北方アジアの諸民族に維持されつつ朝鮮半島を南下し、対馬・壱岐に伝えら対馬・壱岐の卜部を生み出す(中国では殷代に骨占が伝えられ、漢代では天の思想が哲学的に深められる)。卜占は古代世界において、最新の技術であり思想であったのだ(卜占の術が対馬・壱岐に集中している所にこの地の重要性がある)。

 宮廷祭祀に登用された対馬・壱岐の卜部たち(卜部官)は、こうした「天つ神」「天(あま・あめ)」的思想を宮廷神話に持ち込み、大王(天皇)のルーツが高天原に住む神々であるとする宮廷神話を生み出す。宮廷祭祀の実権を握った中臣氏と政治の実権を握った藤原氏は、天皇制中央集権国家(律令国家)を支える『記・紀』神話と神祇制度(『大宝律令』制定、701年)を確立するのである。

 この「天つ神」の神々を対馬・壱岐で多く見ることができる。対馬の下県郡厳原町豆酸の高御魂神社(高皇産霊尊)、上県郡上県町佐護の神御魂神社(神皇産霊尊)、下県郡美津島町小船越の阿麻テ留神社(天照魂・天日神、オヒデリ)、壱岐島壱岐郡の月読神社(月読尊)などがあり、他にも上県郡の和多都美御子(わたつみみこ)神社(豊玉毘賣の子、鵜葺草葺不合命)などがある。

 ただ、対馬、壱岐には海洋漁労の民としての海神を祀る海神神社もあり、本来的には海人族の拠点であったことは変わない(多くの海神社は住吉社へと変わっていく)。また、この海人族は海幸・山幸の伝承を持ち、『記・紀』神話に吸い上げられたのであろうか(豊玉毘賣を祀る和多都美神社。海神神社には山幸伝承があり豊玉毘賣を祀る)。

 対馬、壱岐の地に、「天(あま・あめ)」「天つ神(天を象徴する神々)」の基になった祭天の古俗が伝承されており、宮中で亀占の祭祀を行う対馬、壱岐の卜部たちが、「天(あま・あめ)」の思想や「天つ神」「高天原」の神々を宮廷神話に持ち込んだであろう事が窺えるのだ。


スサノヲ(スサノオ)


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Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00│Comments(1)京の民俗学
この記事へのコメント
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
Posted by なかにし at 2008年10月12日 13:34
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