2006年07月14日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十四)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十四)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社と祇園祭
四条通を鴨川を越えてまっすぐ東へ、東山通に突き当たった正面に見える赤い楼門が八坂神社の西門で、この場所を京都の人々は「祇園石段下」と呼ぶ。
八坂神社は、江戸時代まで「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれてたが、明治の「神仏分離令」によって仏教的な色合いが排除され、土地の旧称に従って「八坂神社」(※注1)と改称された。しかし、京都の人々は以前の通り、普通は「祇園さん」と呼んで親しんでいる。
八坂神社の夏祭りといえば「祇園祭」だが、こちらも明治維新の神仏分離令により、「祗園御霊会」(※注2)は仏教色を薄めて「祇園祭」と称されることになった。また、明治十年(一八七七年)、旧暦六月の七日と十四日であった祭日が、新暦七月の十七日(前祭)と二十四日(後祭)に固定された。
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社の起源(1)
八坂神社の創立については、『八坂郷鎮座大神之記』に「斉明天皇二年(六五六)、高麗から来た調進使の伊利之(いりの)が新羅国の牛頭山(ごずさん)にいます須佐之男命の御魂をもたらして八坂に祀ったという記述が『八坂社旧集録』に引用として記されてる。
このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」『日本書紀』神代紀の一書には「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。八坂神社は、七世紀斉明天皇の頃に開かれ、社殿は天智天皇の頃に造られたとされているが、多少疑問が残る。
(※注1) 八坂神社という社名は、意外と新しく、慶応四年=明治元年(一八六八)三月の神仏分離令により、その五月、「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」と布告されたことによる(『太政類典』。
このとき祭神名も、仏教的・道教的な牛頭天王(ごずてんのう)・婆利女・八王子から、純神道の(神速)素盞嗚尊(かむはや・すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(はしはしらのみこのみこと)に改称された。
明治以前は、「感神院祇園社」ないしは単に「祇園社」と呼ばれてきた。ですから、京都の人々は、今でも親しみ見込めて“祇園さん”と呼ぶ。それが、京都東山の八坂郷にあるところから、正式には「八坂神社」と称されることになったのだ。
(※注2) 「祗園御霊会」は、遡れば、すでに「祇園社(天神堂・感神院)」創立以前の貞観十一年から八坂の地で行われており、それを機縁として「祇園社(天神堂・感神院)」が移されたとも考えられる。しかし、京内に「御旅所」を設けて神幸祭・還幸祭を行うようになったのは、約一世紀後の天延二年からだ。
しかも、その翌年、円融天皇が御願報賽のため、奉幣の勅使を遣わした。これにより、「祗園御霊会」は「官祭」になったと考えられる。
「祗園御霊会」は神仙苑における「御霊会」が政争に敗れて誅された「怨霊=御霊」に対して行われたが、八坂における「祗園御霊会」は「怨霊=御霊」とは関係なく、むしろ古来の「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」などのような、恐ろしい疫病を左右する疫神を鎮め慰めるものであったようだ。
スサノヲ(スサノオ)
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