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2006年08月22日

◆幻の近江高島虎斑石硯 、滋賀県伝統工芸品

地図はこちら幻の近江高島虎斑石硯 、滋賀県伝統工芸品









現在は鉱脈が途絶えた、残り僅かしかない硯だそうだ。

職人も福井正男氏ただ一人となり、幻の硯となるという。


高島虎斑石硯の歴史





 高島硯の起源は、天正年間、織田信長によって比叡山三千坊の焼き討ちにあい、一族郎党を引き連れ落ち延びた、能登之守高城の末孫「貞次」によると言われている。一族が現在の安曇川町で農耕し生計をたてていた頃、貞次が阿弥陀山で、偶然、傳教大師が唐より携えた硯の材料によく似た玄昌石を発見した。これをきっかけに一族は硯への彫刻を始めたそうだ。

 徳川時代には高島硯は北陸・関東・京阪地方にその名を知られていた。 明治に入って虎斑石の鉱脈が発見され、その名声はいよいよ全国的なものとなり、大正天皇の御大典記念には虎斑石硯が献上された。

 写真は大正初期のもので多くの職人たちが働いている様子が伺える。農業の傍ら、夏から冬にかけて硯を作り、年間10万面生産した時期もあったそうである。現在は、かつての全盛時代の面影を失ったが、福井正男氏ただ一人が、従来からの硯に自然石硯を加えた虎斑石本来の美しさと手彫りの優雅さを観賞する郷土美術品として、ごく僅かにその生産を維持している。


工房と制作の様子























 福井永昌堂5代目福井泰石氏が制作する高島虎斑石硯は、ひとつひとつが丹念に手仕事で仕上げられる。自宅裏に建てられた、もう何十年も使用された作業小屋が福井氏の工房。福井氏はいつもここで、ひとり黙々と硯をつくり続けている。

 工房の片隅には採掘されたままの原石がある。既に鉱脈は堀り尽くされ、残された原石はここにあるものだけだ。しかも、全てが硯になるとは限らないのである。中にはヒビ割れて商品価値のないものもある。だから、福井氏がひとつひとつの石の性質を見極め、作業をすすめていく。


福井正男氏の作品


































































福井永昌堂と阪田永昌堂















 阪田永昌堂は、福井永昌堂五代目福井泰石の実娘 阪田久枝(旧姓福井)が、より多くの書道愛好家に300年以上続く高島虎斑石硯の素晴らしさを、知っていただこうという思いにより運営されているサイトです。

阪田永昌堂
http://e-suzuri.com/   


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00Comments(4)京の伝統工芸品

2006年08月13日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十九)




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十九)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社の祭神・中津島姫命(市杵島姫神)と宗形海人(2)

 宗像三女神(道主貴=みちぬしのむち、海北道中の航海守護の神)は北九州と朝鮮半島の海路(航路)・玄海灘に祀られている(宇佐氏の宇佐嶋に天降ったとする伝承もあり、『宇佐氏系図』によると宇佐津彦は宗像三女神の御子とされている)。

 田心姫は玄海灘の只中にある沖ノ島の沖津宮に、湍津姫は筑前大島の中津宮に、市杵嶋姫は北九州の辺津宮(田島)と三宮(三宮を総称して宗像大社)に祀られている(『古事記』は田心姫と大国主の間にアジスキタカヒコネ命と高比売命が生まれたとし、『旧事本紀』は湍津姫と大己貴との間に八重言代主命と高照光姫命が生まれたとしているところから、宗像地方と出雲地方の密接な関係を窺わせる)。(※注1)

 このように海神を三柱の神を一組として祀る形は、航海民・海人族の信仰によく見られる(阿曇氏の三神と津守氏の三神は、伊弉諾尊の日向の橘の小戸の阿波岐原での禊ぎ祓いの神話で登場)。

 宗像三女神は、玄海灘の海人を統率していた宗像氏(胸形君・胸宗肩君・宗形君、宗像海人は『魏志倭人伝』にあるような「黥面文身」を胸に入墨をしていたため、胸形の名がつけられたのではないかと考えられている。大化の改新後ほどなくしてに神主職と大領を兼帯。一つの郡全部が神社に属する特別な地域「神郡」が全国で七社八郡あり、宗像郡はこの「神郡」となります)が奉祭していた海神であったのだ(『日本書紀』第六段の一書には「此れ、筑紫の水沼君らが祭の神」とあり、筑後・水沼氏も奉祭していた)。

 宗像氏が奉祭する海神(宗像三女神)がなぜ「アマテラス・スサノヲの誓約神話」という重要な神話に登場するようになったのであろうか?

 阿曇氏の綿津見三神(底津・中津・表津少童命、志賀海神社・海神社・綿津見神社)と津守(住吉)氏の筒男三神(底筒・中筒・表筒男命、住吉神社)は、大和朝廷の有力な豪族の一員であったため(特に住吉の神は神功皇后の三韓遠征説話で軍船の守神・航海の神とされる)、比較的新しい時期に『記・紀』神話の体系に加えられたようだ。

 宗像氏の三女神(田心姫・湍津姫・市杵嶋姫、宗像大社)も、朝鮮半島との重要な航路(文化の導入・交易・大規模な戦闘など)である、荒れる玄海灘の航路・海北道中の海人を支配している宗像氏を、朝鮮半島への航路を確保するためにも、大和朝廷に懐柔する目的があったのかもしれない。

 このように、大和朝廷は重要な航海の要所の豪族を取り込む必要があったと考えられる(胸形=宗像氏は大化の改心以降、大和朝廷との結び付きが強く、天武天皇の妃・高市皇子の母は胸形君徳善の尼子娘で、奈良県櫻井市外山の宗像神社は一族の神社である)。

 そして宗像神は海人氏族の神から国家祭祀の神へと変質していく。またそのことは、御神木と神紋からも窺い知ることができる。

 胸形(宗像)氏は元々「楢の実をあしらった紋」を持っていたが、宗像大社そのものは神社にいけば一目瞭然「十六菊」、つまり天皇家の家紋を使用している。これはアマテラスの神勅通り、何時の頃からか大和朝廷の支配権が地方の一氏族を越えて統治の手が入った事を物語っている。

 つまり、この地域は大和朝廷の管轄下となり、管理人が宗像氏だったことを意味する。沖ノ島の国家的祭祀に類推される出土がそれを物語っているようだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 玄海灘の孤島・沖ノ島は宗像の神湊から約57キロ沖にあり、古代から朝鮮半島・大陸への航海の目標であり、海人の信仰を集めてきた神の島だ。

 また海の正倉院とも呼ばれるように、古代祭祀に関係する遺物がたくさん出土している。この島は今でも神々と神主以外は誰も足を踏み入れることができない禁足地で、「島にやむなく立ち寄った者は、島の事をみだりに語ってはいけない」「島の木々一草も持ち帰ってはいけない」「島に入る者は、海中でみそぎをする」という禁忌がある神聖かつ特別な神の島(不言様・不言島)である。


スサノヲ(スサノオ)  


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00Comments(1)京の民俗学

2006年08月12日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十八)




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十八)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社の祭神・中津島姫命(市杵島姫神)と宗形海人(1)

 『本朝月令』松尾祭事所引の『秦氏本系帳』に次のような記事がある。「秦氏本系帳に云く。正一位勲一等松尾大社の御社は、筑紫胸形に坐す中部の大神。戌辰年三月三日、松埼日尾(又日埼岑と云ふ)に天下り坐す。大宝元年、川辺腹男秦忌寸都理、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹女秦忌寸都賀布、戌午年より祝(はふり)となる。子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十年。」とある。

 このように松尾大社の祭神は、大山昨神の他にもう一座、中津島姫命が戌辰年三月三日に「松埼日尾」に降臨したとしている。その後、大宝元年(701年)に秦忌寸都理が「松埼日尾」から松尾に勧請し、社殿を営んで、知麻留女に奉斎させ、その子・秦忌寸都賀布以降、子孫が代々祝となったという。

 松尾大社の祭神を、筑紫胸形に坐す中部の大神と記されているが、この神は今の福岡の宗像三神の市杵嶋姫命を指す。大山昨神と一緒に祀られていたのが日吉大社の鴨玉依姫ではなく、宗像三神の市杵嶋姫命であることは大変興味深いことだ。

 なぜ市杵嶋姫命が祀られたのであろうか。桂川(大堰川)の右岸の岩田山に、古い創建の市杵嶋姫命を祀る櫟谷(いたに・いちたに)神社と宗像神社(天智天皇=668年に筑紫の宗像から勧請されたと伝えてる)がある。

 このことは、松尾神の磐座祭祀の時代から、市杵嶋姫命が近くに祀られていたことを示し、大宝元年(701年)に神殿が造営された時に、改めて松尾大社にも祭祀されたものと考えられる。

 ではなぜ、秦氏の本拠地とされる葛野の地に市杵嶋姫命が祀られていたのであろうか。

 秦氏が宗像神を信仰する理由については、秦氏が渡来人として大陸との通交上、宗像神を「道主貴(みちぬしのむち)」として信奉していたものと考えられる。秦氏(秦=パタ=海とも)が朝鮮半島からの渡来人であるということを考えると、関連があるのかもしれない。

 このことは、宗像神を奉斎する集団が渡来に際して神と共に移住してきた状況を推測させる。宗像神は海路守護の海上神であり、筑紫国宗像郡は海外文化・人物に受け入れ口であることを考えると、松尾の秦氏が玄海灘の宗像を経由して山城国に至ったとも考えられるのだ。すると、松尾大社は山の神・大山咋神と海の神・市杵嶋姫命と、海と山の両神を祀る神社ということになる。

 ではなぜ、大宝元年に宗像神が勧請されなければならなかったのであろうか。大宝元年というのは『大宝律令』が出来、祭神を律令制度の中に位置付けようとした年だ。

 ここで大山咋神と市杵嶋姫命の結婚が行われたとも考えられる。これは、天武天皇が胸形徳善の娘の尼子娘を娶って高市皇子が生まれて以後、宗像の神は全盛期となったことと関係がありそうだ(宗像神社は全国に6000社余も分祀され発展する)。

 胸形君とは後の宗像氏のことで、この当時すでに中央にかなりの影響力を持っていた(神功皇后は朝鮮征伐の際、宗像神の神威をかりたと伝えられている。宗像神は玄海灘一帯の海人族の崇敬をうけており、宗像の地は大化改新以降「神郡」となる)。

 また天武十三年には「朝臣」の姓を賜っている。宗像(胸形)氏も秦氏と同様に、新羅・加耶から渡来した産鉄氏族であったのであろう。

 また、中央に祭官として出仕した壱岐氏は、壱岐で祀っていた月神を山城国葛野郡に移して月読神社を祀る。葛野坐月読神社は松尾大社の第一摂社であり、壱岐氏が奉斎する神社であることを考えると興味深いことだ。

 葛野の秦氏は豊前国の秦部(宗像神は最初、宇佐島に降臨したとも)と祖先伝承など何らかの関係を持ち、その関係が大宝元年になって強まり、宗像神の勧請という事態に至ったのではないかとも推測できる。

 そして秦氏と宗像大社(秦氏と宗像氏)との関わりからか、磐座信仰の宗像神を日埼峯に降臨させたのが、『秦氏本系帳』の伝承となったとも考えられる。

 さらに、当時の文武天皇の御世の政策は、律令国家整備の一環として、地方諸国への支配体制を整え始めていた時期でもあり、朝鮮半島と北九州との関係も頻繁となっていた。こうした様々な要因が山城国葛野郡に影響を及ぼしたのであろう。


スサノヲ(スサノオ)  


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00Comments(2)京の民俗学

2006年08月11日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(5)

 対馬・壱岐は、日本列島と朝鮮半島の古代における文化・交易(輸入鉄など)の海上の輸送の経路であり、重要な位置にある。

 ただ地理的形態は全く違い、対馬は『魏志・倭人伝』に「土地は山険しく、深林多く・・・良田無し」とあるように、海面からいきなり山がそそり立つ耕地の少ない山の島だ。それに引き換え、壱岐は山の少ない平坦な島で、耕地になる土地も多く水にも恵まれている。

 また壱岐の原の辻遺跡や唐神遺跡からは、弥生時代の大規模多重環濠集落跡やわが国最古の船着き場跡、床大引き材、人面石、棹ばかりの重り「権(けん)」など第一級品が多数出土している。

 もう一つ対馬・壱岐は、日本の古代史にとって見逃せない重要な意味を持っているのだ。それは、『記・紀』神話や古典神道の成立に与えた影響である。

 卜占は、古代日本では太占(ふとまに)とも呼ばれ、鹿占・亀占など動物の骨を焼き、そのひび割れ状態(占状)で吉凶を占うものである。こうした骨占は古代の北方アジアの諸民族の習俗で、朝鮮半島を経て、対馬・壱岐に伝わり、日本本土にもたらされた(神聖感覚を主体とする原始神道には卜占などはなかったが、対馬・壱岐から伝わった卜占は古典神道に多大な影響を与える)。

 この卜占・骨占という技術によって天の意思(天=テングリの信仰(祭天の古俗)は本来、北方アジアの草原の遊牧民の信仰であったようだ)を知り、地上の王以下に対してその運命を教えたのである(天の信仰・思想とともに卜占・骨占が成立していく)。

 こうした卜占の技術・亀占に優れた者を朝廷に呼ばれ、宮廷祭祀の吏員として登用していく。『大宝律令』制定(701年)のとき、神祇官の職掌名として「卜部」という者が20人(対馬卜部10人、壱岐5人、伊豆5人)登用されていた。

 古典神道の「天つ神」「天(あま・あめ)」的思想は、北方アジアの諸民族の信仰の祭天の古俗、天を祀り天の意思を知るために、王みずからが神主の長となった祭天の古俗に、卜占・骨占を行う習俗の源を見ることができそうだ。

 こうした祭天の古俗は、北方アジアの諸民族に維持されつつ朝鮮半島を南下し、対馬・壱岐に伝えら対馬・壱岐の卜部を生み出す(中国では殷代に骨占が伝えられ、漢代では天の思想が哲学的に深められる)。卜占は古代世界において、最新の技術であり思想であったのだ(卜占の術が対馬・壱岐に集中している所にこの地の重要性がある)。

 宮廷祭祀に登用された対馬・壱岐の卜部たち(卜部官)は、こうした「天つ神」「天(あま・あめ)」的思想を宮廷神話に持ち込み、大王(天皇)のルーツが高天原に住む神々であるとする宮廷神話を生み出す。宮廷祭祀の実権を握った中臣氏と政治の実権を握った藤原氏は、天皇制中央集権国家(律令国家)を支える『記・紀』神話と神祇制度(『大宝律令』制定、701年)を確立するのである。

 この「天つ神」の神々を対馬・壱岐で多く見ることができる。対馬の下県郡厳原町豆酸の高御魂神社(高皇産霊尊)、上県郡上県町佐護の神御魂神社(神皇産霊尊)、下県郡美津島町小船越の阿麻テ留神社(天照魂・天日神、オヒデリ)、壱岐島壱岐郡の月読神社(月読尊)などがあり、他にも上県郡の和多都美御子(わたつみみこ)神社(豊玉毘賣の子、鵜葺草葺不合命)などがある。

 ただ、対馬、壱岐には海洋漁労の民としての海神を祀る海神神社もあり、本来的には海人族の拠点であったことは変わない(多くの海神社は住吉社へと変わっていく)。また、この海人族は海幸・山幸の伝承を持ち、『記・紀』神話に吸い上げられたのであろうか(豊玉毘賣を祀る和多都美神社。海神神社には山幸伝承があり豊玉毘賣を祀る)。

 対馬、壱岐の地に、「天(あま・あめ)」「天つ神(天を象徴する神々)」の基になった祭天の古俗が伝承されており、宮中で亀占の祭祀を行う対馬、壱岐の卜部たちが、「天(あま・あめ)」の思想や「天つ神」「高天原」の神々を宮廷神話に持ち込んだであろう事が窺えるのだ。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年08月07日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(4)

 『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に、阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(あらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあり、この託宣した月神は壱岐の月読神社の祭神(壱岐海人の海を支配する荒ぶる神。『先代旧事本紀』では天月神命、壱岐県主の祖神)とみられ、葛野坐月読神社の月読神は壱岐から勧請されたと考えられる。

 壱岐(芦辺町国分東触)には、月読神社(旧無格社、古称は清月、山の神)が鎮座する。祭神は中:月夜見尊、左:月弓尊、右:月讀尊とあり、芦辺港から西へ、約2キロメートルの山の端に鎮座する。

 この月読神社は古来、清月・山の神と呼ばれており、山の神を祀る神社であったが、延宝年間に、延宝の神社改めの際、平戸藩の国学者橘三喜によって、深月・清月の地名から月読神社とされた。しかし、この月読神社には古い由緒がなく、以前はただ「山の神」と称しただけであったようだ。

 では本来、月読神社は何処にあったのであろうか。『式内社調査報告』では、箱崎にある八幡宮の相殿に、天月神命が祀られており、棟札にも「箱崎八幡宮月讀宮・・・」と記されているところから、原初の鎮座地は「オンダケ山」(男岳)であったと考証されている。また、箱崎八幡宮の宮司が壱岐の古い社家(壱岐氏)であることも、月読神社の有力な根拠となっている。

 また、この月神の託宣(『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条)に続いて日神の託宣があるが、それは対馬にある阿麻テ留(あまてる)神社の祭神とみられている。

 さらに、この日神・月神二神が我が祖(みおや)と呼んだ高皇産霊は、対馬の高御魂(たかみむすび)、壱岐の高御祖(たかみおや)とみられている。

 このことからも、古くから対馬の古族(対馬県直)は日神を祀り、壱岐の古族(壱岐県)は月神を祀っていたことが知られ、それは亀卜と関係していたものと考えられていた。

 そして、壱岐の月神に山背国葛野郡の歌荒樔田を献ったということは、壱岐県主の一族が中央に出て朝廷の卜部(うらべ、卜部氏は卜兆の職掌に携わった氏族で神祇官に出仕し卜占=亀卜や祓に従事した)となったことから、その祭祀を畿内に遷したときの所伝とみられている(『記・紀』の神統譜に持ち込まれたのか)。

 また、日本神話の天照神は対馬、月読神は壱岐を本祀としたものとも考えられ、ムスビ(皇産霊)の神も対馬・壱岐二島にあり、神道の形成時に卜部が重要な役割を果たしたものと考えられる(任那滅亡の時期、朝鮮半島に対する対馬・壱岐の重要度が増し、卜部が中央祭祀に関わる)。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 対馬や壱岐は日本列島と朝鮮半島との間に位置し、大陸との文物交流・海上交通の中継地として古代より重視されてた。式内社も多く、神祇官の亀卜を担当する卜部氏の出身地でもある。

 対馬や壱岐は本州の影響から隔てられていたため、神社形態も発展せず、聖地信仰的要素の強い小祠が圧倒的である(社殿・神体を伴わない亀卜を中心とする祭祀形態)。しかし、これは古代の神祇信仰の形態が保存されされているとみることもでる。

 また、天道信仰(日神とその子の天道=天童にまつわる日神・祖霊・穀霊信仰であり東洋的祭天の古俗、天道地は一種の聖地信仰)や岳信仰には中国大陸・朝鮮半島の影響もみられる。

 ムスビ信仰としての高御魂神社と神御魂神社、日神信仰としての阿麻テ留神社、月信仰としての月読神社、海神信仰としての和多都美神社、天神信仰としての天神多久頭多麻神社など古い信仰形態(神道の原形)を多く残している(アマテラスとスサノオ命の葛藤・対立関係は、対馬の古邑に天神と雷神が対照的に祀られている状況に関わりがあるのであろうか)。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年08月04日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十五)




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十五)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(3)

 『山城国風土記』逸文には月読尊がアマテラス(天照大神)の勅(みことのり)を受けて「豊葦原の中つ国に降りて、保食神(うけもちのかみ)のもとに到りましき」とある。この神話は『日本書紀』(神代巻)第十一の一書の月読尊が豊葦原の中つ国へ派遣される話だ。

 月読尊は、『記・紀』神話では余り活躍しないが、この神話では、アマテラス(天照大神)の命令を受けて中つ国に向かい、穀物神である保食神(うけもちのかみ)のもてなしを受けたが、保食神が魚や狩りの獲物を口から吐き出して饗応したので、汚らわしいと怒って、ついに保食神を剣で惨殺してしまう。

 ことの有様を知った天照大神は、月読尊は悪神であるといい、もう会わないとといって、ついには両神は「一日一夜、へだてはなれて住みたまふ」ことになったという。

 どうして、この神話が『山城国風土記』に収載されたのであろうか…?。それについては以下のような事情があったようだ。

 それは『続日本紀』に大宝元年(701年)四月の勅(みことのり)に「山背国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志(はつかし)神などの神稲は、今より以降、中臣氏に給へ」とある。

 この月読神は、『延喜式』に記す葛野坐月読神社の神のことで、『山城国風土記』が編纂されたころには、山城国にすでに月読神を祀る祠(神社)があったので、その縁起譚として月読尊の神話が収録されることになったようだ。

 この月読尊は、『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(うたあらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあるように、壱岐から分祀(勧請)された。

 顕宗天皇三年(487年)が実年代でないにしても、葛野坐月読神社の月読神が壱岐から勧請されたものであることは確かなようだ。

 壱岐には亀卜を行う卜部がいたが、朝廷から重視された四ヶ国卜部(壱岐卜部、対馬卜部、奈良卜部、伊豆卜部)の一つが壱岐卜部である(壱岐のト占・亀ト、当時最新の思想と技術が畿内に初めて導入されたことを示している。朝廷により招聘された壱岐のト術に優れた者はのちに卜部氏となり宮廷祭祀で中臣氏とともに従事した)。

 この壱岐卜部は山城国葛野とも密接な繋がりを持っていた(山城国葛野を開拓した秦氏がいたためであろう)。また、『山城国風土記』逸文に、葛野の賀茂社の祭り(賀茂祭)に壱岐卜部若日子が関係した伝承があるのも、そのことを表している。

 壱岐の月神は本来、海人族に信奉されていた航海の神だ。海を生活の基盤とする海人族にとって、月齢を読んで潮の干満を知った。壱岐の海人族の月神の原初の姿が、内陸地に移されると農民生活に関わる農耕神へと変化していったと思われる。

 『延喜式』には、伊勢神宮内宮の月読神社・月読荒魂神社、外宮の四所別宮の月夜見宮や丹波国桑田郡小川の月神社がみえる。これらの月読神(月夜見神)も海人族の奉斎した神であったのであろう。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)月神を祀る神社は、大きく分けて三系統に分かれそうだ。一つは伊勢神宮内宮の月読神社・月読荒魂神社、外宮の四所別宮の月夜見宮、山城国葛野郡の葛野坐月読神社、丹波国桑田郡小川の月神社、壱岐国壱岐郡の月読神社で、この月神(月読神)は、壱岐の古族(壱岐県主)によって勧請されたと考えられる。

 もう一つ、 山城国綴喜郡樺井の月神社(月読神社)は隼人によって勧請されたと考えられ、さらに出羽国飽海郡の月山神社(出羽三山のひとつとして修験道で有名な月山の頂にある)は、月読命が神仏習合時代には本地仏に阿弥陀如来が当てられ合わせて祀られていた。しかし本来、月山信仰は月の見える山の際(頂)に祭祀の場を設けた太陰信仰であったようだ。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年08月03日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十四)




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十四)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(2)

 松尾大社から山沿いの小道を南へ少し行くと、月神(月読神・月読尊・月読命)を祀る「葛野坐月読神社」(祭神は『旧事本紀』にいう天月読命)がひっそりと建っている。

 この神社は松尾大社の摂社であるが、およそ1500年前に京都(山城国)に鎮座したとされる古社である(はたして葛野坐月読神社の創建・顕宗三年=487年が実年代であったかはわからない。また羽束師坐高御産日神社は対馬国か壱岐国から奉祭された考えられている。今は秦氏の氏神・松尾大社【創建は大宝元年=701年】の摂社となっており、歴代の祝などから秦氏と密接な関係であったようだ)。社殿はけっして大きくなく、そこに管理人がいるわけでなく多少寂れた雰囲気である。

 月読神社の創祀に関しては、『日本書紀』に記載がある。『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に、阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(うたあらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあり、この月神は壱岐の月読神社の祭神とみられるのである(『日本書紀』頭注は「歌は葛野郡宇太村(後の平安京の造られた地)、荒樔は産(あ)るの他動詞で、神の誕生の意」)。

 この月読神社は斎衡三年(856年)に、水害を恐れて松尾山南麓の現在の地に遷ったと伝えている。そして松尾大社が従一位に進んだ貞観元年(859年)には、月読神社神社は正二位に進み、さらに貞観十一年(869年)に従一位に、延喜六年(906年)には正一位勲二等を授かり、『延喜式』神名帳では名神大社(月次・新嘗)に列せられている。

 このように名社であるが、古くから松尾大社の摂社で、その管理は松尾大社が行ってきたという(社務の実権は摂社の月読神社の長官中臣系の伊岐使=松室氏が掌握していたとも)。

 しかし、略歴をみると創祀も祭祀者も異にしながら摂社とされて祀られているところから、秦氏の氏神・松尾大社との密接な関係にあったようである。

 月読神社は天文・暦教・卜占・航海神として崇められていたようだ。ではなぜ海のない山城国に航海神が必要であったのであろうか。

 閑静な境内には、御船社(松尾大社の大祭に唐櫃を出すが、これは月神が船に乗って渡御することを示し、月神が海人によって信仰されていた名残りである)と聖徳太子社(月読尊を尊崇した聖徳太子の徳を称えて祀ったものといわれている)があり、その隣には月延石と称する石(神功皇后が腹を撫でて安産された石を、月読尊の神託により舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求めて奉納されたという伝説がある。

 神功皇后の安産石や月神の伝説は九州の神社に多く、築後国の高良大社の祭神・高良玉垂神は「月神の垂迹」とする説がある)がある。

 ただ、この安産石は斉明天皇が朝鮮半島遠征の際し、神功皇后ゆかりの月延石(月の満ち欠けには出産を早めたり延ばしたりする霊力があるとみられていた)を納めて勝利を祈願したことに由来したようだ。

 月読神社の鎮座する葛野郡には、月に関わる地名が嵐山・嵯峨野など平安京の西側に集中している。葛野の大堰(おおい)の近くの「渡月橋」「桂川」「桂離宮」などがあり、桂は中国では月にある想像上の樹だとされ、転じて月を指すようになったようだ。

 また、松尾大社の大祭・松尾祭(古くは葵祭と呼ばれた)は葵と桂で彩られる(賀茂祭・日吉祭でも彩られる)。こうした桂のイメージは、この葛野坐月読神社に由来し、月読神のシンボルが桂であったからであろうか…?

 ちなみに賀茂社のシンボルが葵である(伴信友の『瀬見小河』に「かつらの枝は松尾の御やしろの御たくせんおはして、けふにさしそへたまひぬ、・・・さて桂を松尾神の託宣にかけていへるは、一傳なるべし、また此葵桂を日吉神祭にも用ふ、其は賀茂に因縁ありての事ときこえり・・・」)。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年08月02日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十三)




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十三)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(1)

 京都(山城国)には、月に関わる地名が、嵐山・嵯峨野など平安京の西側に集中している(但し、木嶋坐天照御魂神社=このしまいますあまてるみたまじんじゃ=別名:蚕の社のように太陽信仰の遥拝所と見られる社もある)。

 例えば、嵐山にある葛野の大堰(おおい)の近くに「渡月橋」がある。「渡月橋」とは月の世界に渡る橋という意味なのであろううか(「渡月橋」という名前は亀山天皇が「くまなき月が渡る」のに似るという意味から名付けたという)。

 すると、橋のこの辺りや向こうは月世界となり、玉兎が餅つきをしている幻想世界だということになる。

 この月橋の下を流れる川は、渡月橋の源流付近が大堰川で、保津峡あたりが保津川で、そして下流を桂川といい淀川に合流する(これらは、すべて河川法上、桂川に統一されている)。

 大堰川は葛野の大堰に由来するが、桂川の名前は、何に由来するのであろうか…? この河川名は、平安時代の紀貫之(きのつらゆき)以来の名称といわれ、川西一帯の桂の地名に由来する。

 古代の『釈日本紀』に葛川とあり、葛野(かどの)郡という地名にちなんで、葛野川と呼ばれていたそうでだ。葛と桂は、相通じる意味があり、川辺にカヅラかカツラが茂っていたか、カヅラのツルのように流路がクネクネと蛇行していたのではないかともいわれている(「葛」は一般には蔓(つる)の「かずら」と考えられている。しかし「桂」の落葉種の高木とみる考えもある)。

 また、『山城国風土記』逸文には「桂里」の記事があり、桂が神聖な樹木(月と桂には不死の生命力・霊力があり、桂の里とは再生の聖地)であることがわかる。

 しかし「桂」といえば、京都では「桂離宮」が有名であるが、それがあるのは、やはり渡月橋の向こう側の桂川の西岸である。つまり、地上を離れた月世界にある宮、それが桂離宮なのだ。すると、桂の意味も月と深く関係していそうだ。

 桂の樹木は、高さ約30メートルほどのカツラ科の落葉高木で、春、葉に先立って紅色を帯びた細花を房状につける(樹皮は灰色で、葉は卵心形。雌雄異株。果実は円柱形の袋果。材は軽く軟らかく加工が容易で、家具・彫刻・器具用になる)。

 桂にはもう一つ意味がある。それは、中国では、月にあるといわれる想像上の樹木(月の桂)のことなのだ(『酉陽雑爼』に月の中に桂の木とガマガエルがいるといい、不死と桂の伝承を伝えている)。

 このように古代、嵐山・嵯峨野など平安京の西側、特に渡月橋で渡った桂川の西側は月の世界とみられていたようなのだ。月の世界、想像上の樹木(月の桂)とくると、そこには不老不死の思想、つまり中国の道教的な神仙思想の影響を窺うことが出来そうだ。

 月の世界とは、不老不死の仙人が住むとされた理想郷であった(月で不死の薬草を搗-兎の説話は、西王母・せいおうぼ、西方の仙界・崑崙山に棲むという-の神話に属し、仙界の一つが月世界であった。蓬莱山なども)。

 月は新月と満月を繰り返し、一度消えて復活することから、古代人は不死を感じたのであろう。『竹取物語』には、月に不死の薬があるとされている。かぐや姫は昇天の際、月世界に戻るため不死の薬を少し嘗め、残りを翁に渡し、翁は天皇に献上しいる。

 このことからわかるように、桂川の辺りや西側は月世界なのだ。きっと平安時代の宮廷貴族たちは、中秋の名月を眺めながら、はるかな月世界に思いを馳せ、そのイメージを桂川の西に再現したのかもしれない。

 この辺りは秦氏が開拓・開発した地域である(南部には高麗氏、北部には賀茂氏、東部には八坂の造の一族が住み着き、いわば京都の先住人達である)。

 また、酒の神様として有名な松尾大社があるが、この社を創建したのは秦忌寸都理なる人物である。ちなみに、松尾大社・上賀茂神社・下鴨神社を合わせて「秦氏三所明神」とも呼ぶ)。

 さらに、渡月橋の上流にある葛野の大堰を建設したのは秦氏であり、平安京造営の中心になったのもこの一族である。秦氏は第15代・応神天皇の時代に、朝鮮半島から渡来してきたとされている。

 そのとき、秦氏一族(127県の人夫・3万~4万人といわれています)を率いていた首長の名を「弓月君(弓月王)」(融通王)という。弓月とは、弓張月、すなわち三日月を意味するのであろうか。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年08月01日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十二)




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十二)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国葛城郡の高天彦神社と葛城氏(3)

 大和朝廷は国家統一の過程で、周辺の豪族を連携または平定し、領土を拡大していった。また、葛城族と葛城の地もそうした過程を踏んで大和朝廷に組み込まれていったと思われる。

 葛城の背後に聳える二つの山からの伏流水で豊かな水に恵まれ、古代より文明の発達する条件に恵まれた所であったようだ。

 また、この地は朝鮮半島からの進んだ文化を取り入れやすい要地でもあり、朝鮮半島から北九州を経て、瀬戸内海を通り上陸して水越峠を通ると、そこは葛城の地である。これは葛城の葛城族に半島文化をもたらした、あるいは葛城族が辿り着いたルートの一つであったと思われる。

 葛城王朝を樹立したのは、葛城山下の平坦地(この地は鴨族が先住開拓していた土地であり、後に事代主神を祀る鴨族を政治的結合か服属したようだ)であった。

 葛城王朝の崩壊の後、この王朝の最後の王であった開化天皇の異母弟、彦太忍信命の子孫から武内宿禰が出たとされ、彼の功績によって葛城氏を再興する機会を与えられ、その子の葛城襲津彦が葛城氏の本宗として地位を築き上げたとされている。しかし、この葛城氏の本宗も数代にして亡び、それに代わって一族の蘇我氏が後に台頭するのである。

 葛城氏の系譜では、高天彦(高御産巣日神・高皇産霊神)を祖神としている。したがってこの神を祀る所が、またこの部族の居住地でもあったと考えられる。

 金剛山(古代に葛城山と呼ばれる)の中腹に、葛城の五大社の高天彦神社(延喜の制では名神大社。月次・相嘗・新嘗)がある。この神社は高天原旧蹟という伝説があり、葛城王朝発祥の地として鳥越憲三郎から注目された所でもある。この祭神が高天彦(高皇産霊神)だ。

 ところで、高木神(高皇産霊神)から派遣されてきた八咫烏は、『日本書紀』では、神武天皇即位の後の論功行賞で、「頭八咫烏また賞に入る。その後裔は葛野(かつぬ)の主殿縣主部(とのもちあがたぬしべ)これなり」と出ている。

 大和国葛城地方にいた鴨氏(葛城氏と同族)は、葛城から山城の賀茂岡田から乙訓・葛野、更には現在の上賀茂神社の辺りへと移住したという。この時、人々の移動と共に丹塗矢や神武天皇と玉依姫の伝承、高木神の信仰や文化などが山城の地にもたらされたのかもしれない。

 実は、藤原氏の前身である中臣氏も高木神(高皇産霊神)の信仰を持っていた。葛城氏も前述のように高天彦(高皇産霊神)の信仰を持っていた。

 あるいは葛城氏(4~5世紀、葛城氏の勢力は大臣の外戚・大臣として大変なものであった。『記・紀』では同じく武内宿禰を始祖とする紀・平群・巨勢・蘇我氏がいる。また、蘇我稲目は没落した葛城氏の女と結婚しており、もうけた二人の娘を欽明天皇に差し出している。王権の統一を回復した欽明天皇は、かつて大王たちに后妃を独占的に提供していた高貴なる葛城氏の血を欲していたようだ)の神であったからこそか、『記・紀』編纂を主導する藤原氏は「高皇産霊神」を天皇家の最高神の一つとしたのである。

 それどころか、天孫降臨で高木神が果たす役割は、地上での藤原不比等そのものであった。もしかすると、高木神も藤原氏によって葛城氏からの吸収され取り込まれたのかも知れない。

 藤原氏(中臣氏改め藤原氏となる)によって行われた『記・紀』の編纂、「古典神道」の確立は「宗教改革」と呼んでよいほどの大変革であった。

 その目的は、天皇家と藤原氏に連なる神々を「天つ神」、豪族に連なる神々を「国つ神」に系譜づけることであった(『記・紀』の神統譜作りの目的は、天皇家と藤原氏のためである)。

 天つ神の首領神がアマテラス(天照大神)であり、国つ神の首領神がスサノヲ命(スサノオ命・須佐之男命・素盞鳴神)とそれを継承したオオクニヌシ(大国主神)とした。

 藤原氏はこの「宗教改革」の中で、標的にしたのが葛城氏の神であったと考えられる。つまり、藤原氏によって葛城氏の神は宗旨や神格が替えられ、一部の神は天皇家と藤原氏に連なる神々へ組み込まれていくのである。

 京都北東部の両賀茂社も藤原氏によって宗旨が替えられた可能性がある(祭神は賀茂別雷命が上賀茂、その母・玉依姫と祖父・賀茂建角身命が下鴨となっており、つまり、藤原不比等が娘を後宮に入れ、その産んだ息子を天皇位につけた姿と同じなのである)。


スサノヲ(スサノオ)  


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