2006年07月22日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(二)
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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(二)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社と賀茂神社の説話の類似と桂と葵
かつて、松尾大社の神幸祭(4月21日)は、「葵祭」と呼ばれていた。本殿をはじめ拝殿や楼門、各御旅所の本殿・神輿から供奉神職の冠・烏帽子に至るまで、葵と桂で飾るためである。しかも日吉・賀茂・松尾の三社の例大祭はいずれも4~5月のほぼ同時期に行なわれてきたのだ。
葵祭といえば、賀茂神社を思い出すが、おそらく、その始まりは賀茂神社から流入したのであろう。松尾大社も磐座信仰のころは、賀茂神社と同じく別雷神を祀っていたため、そうした縁から葵を付けることになったと思われる。
また松尾大社の桂は、神仙思想や摂社の月読神社と深く関係していそうだ。月読神社は顕宗天皇三年=487年、阿閉臣事代が任那に使したとき、月神のお告げを受け、天皇に奏上して山城国葛野郡の荒樔田の地に神領を賜り、社を創建し、壱岐県主の祖先・押見宿禰が神職として奉仕したという。
伴信友の『瀬見小河』には「四季物語賀茂祭のくだりに、かつらの枝は松尾の御やしろの御たくせんおはして、けふにさしそへたまひぬ、・・・さて桂を松尾神の託宣にかけていへるは、一傅(またのつたへ)なるべし、また此葵桂を日吉神祭にも用ふ、其は賀茂に因縁ありての事ときこえたり・・・」とある。
日吉大社では、例祭の「申の神事」で、西本宮に桂の奉幣がある。松尾大社(月読神社)の象徴である桂(桂は中国・神仙思想において月にあるという想像上の樹だ。壱岐から勧請されたとする京都で最も古い月読神社と関係していそうである。葛野=嵐山・松尾の地名には月と関係する所が多く存在する。桂川・渡月橋・桂離宮など)と賀茂神社の別雷神の象徴である葵が、賀茂・松尾・日吉の例祭を彩っているのである。
『山城国風土記』逸文の「可茂の社」の項によれば、玉依日売(玉依姫命)が石川(賀茂川)で川遊びをしているとき、丹塗矢が川上から流れてきたので、その矢を持ち帰って床の辺に挿しておくと孕んで男子を生んだという。
その男子は外祖父の賀茂建角身命(外祖母は丹波の神野の神・伊可古夜日女)に因んで賀茂別雷命と名づけられたが、あるとき、その丹塗矢、つまり男子の父は火雷命であることが判明した(丹塗矢は乙訓の社に坐す火雷神だとある)。
ところが、『秦氏本系帳』によれば、葛野川で「秦氏女子(阿礼乎止女=知麻留女)」が洗濯をしているとき流れてきたのが丹塗矢が「松尾大明神」で、生まれた子が「都駕布」であったとして、同様の話を伝えている(『古事記』では松尾の神を「この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」としている)。
『秦氏本系帳』によれば養老二年(718年)、秦忌寸都駕布が初めて祝(はふり)となり、以降秦氏が子孫世々奉仕したとある。
『新撰姓氏録』(嵯峨天皇の勅によって古代の諸氏・千百八十二氏の系譜を集成した一種の姓氏事典)によれば、賀茂氏は「山城国神別」、秦氏は「山城国蕃別」(「太秦公宿禰。秦始皇帝の三世の孫、孝武王の後なり」、あるいは山城国諸蕃には「秦忌寸。太秦公宿禰と同じ祖、秦の始皇帝の後なり」とある)とその出自は違っているが、両氏はきわめて密接な関係にあったことが想像できる。つまり、賀茂氏と秦氏は共通の丹塗矢伝説をもっていたわけだ。
「鴨県主家伝」によると「賀茂社の禰宜黒彦の弟の伊侶具・都理が秦の姓を賜り、それぞれ伏見稲荷・松尾大社を作った」とあり、逆に『秦氏本系帳』によると「鴨氏人を秦氏の聟(むこ)とし、秦氏、愛聟に鴨祭を譲り与う。故に今鴨氏禰宜として祭り奉るのはこの縁なり」としている。
両氏は姻戚関係を結んでいたのは確かなようである。なお松尾大社の最初の「祝」は、丹塗矢で処女懐胎をした阿礼乎止女=知麻留女の子の都駕布で、近世までその子孫が代々、神職を世襲してきた。全国の分社の数は約1300社である。
スサノヲ(スサノオ)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(二)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社と賀茂神社の説話の類似と桂と葵
かつて、松尾大社の神幸祭(4月21日)は、「葵祭」と呼ばれていた。本殿をはじめ拝殿や楼門、各御旅所の本殿・神輿から供奉神職の冠・烏帽子に至るまで、葵と桂で飾るためである。しかも日吉・賀茂・松尾の三社の例大祭はいずれも4~5月のほぼ同時期に行なわれてきたのだ。
葵祭といえば、賀茂神社を思い出すが、おそらく、その始まりは賀茂神社から流入したのであろう。松尾大社も磐座信仰のころは、賀茂神社と同じく別雷神を祀っていたため、そうした縁から葵を付けることになったと思われる。
また松尾大社の桂は、神仙思想や摂社の月読神社と深く関係していそうだ。月読神社は顕宗天皇三年=487年、阿閉臣事代が任那に使したとき、月神のお告げを受け、天皇に奏上して山城国葛野郡の荒樔田の地に神領を賜り、社を創建し、壱岐県主の祖先・押見宿禰が神職として奉仕したという。
伴信友の『瀬見小河』には「四季物語賀茂祭のくだりに、かつらの枝は松尾の御やしろの御たくせんおはして、けふにさしそへたまひぬ、・・・さて桂を松尾神の託宣にかけていへるは、一傅(またのつたへ)なるべし、また此葵桂を日吉神祭にも用ふ、其は賀茂に因縁ありての事ときこえたり・・・」とある。
日吉大社では、例祭の「申の神事」で、西本宮に桂の奉幣がある。松尾大社(月読神社)の象徴である桂(桂は中国・神仙思想において月にあるという想像上の樹だ。壱岐から勧請されたとする京都で最も古い月読神社と関係していそうである。葛野=嵐山・松尾の地名には月と関係する所が多く存在する。桂川・渡月橋・桂離宮など)と賀茂神社の別雷神の象徴である葵が、賀茂・松尾・日吉の例祭を彩っているのである。
『山城国風土記』逸文の「可茂の社」の項によれば、玉依日売(玉依姫命)が石川(賀茂川)で川遊びをしているとき、丹塗矢が川上から流れてきたので、その矢を持ち帰って床の辺に挿しておくと孕んで男子を生んだという。
その男子は外祖父の賀茂建角身命(外祖母は丹波の神野の神・伊可古夜日女)に因んで賀茂別雷命と名づけられたが、あるとき、その丹塗矢、つまり男子の父は火雷命であることが判明した(丹塗矢は乙訓の社に坐す火雷神だとある)。
ところが、『秦氏本系帳』によれば、葛野川で「秦氏女子(阿礼乎止女=知麻留女)」が洗濯をしているとき流れてきたのが丹塗矢が「松尾大明神」で、生まれた子が「都駕布」であったとして、同様の話を伝えている(『古事記』では松尾の神を「この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」としている)。
『秦氏本系帳』によれば養老二年(718年)、秦忌寸都駕布が初めて祝(はふり)となり、以降秦氏が子孫世々奉仕したとある。
『新撰姓氏録』(嵯峨天皇の勅によって古代の諸氏・千百八十二氏の系譜を集成した一種の姓氏事典)によれば、賀茂氏は「山城国神別」、秦氏は「山城国蕃別」(「太秦公宿禰。秦始皇帝の三世の孫、孝武王の後なり」、あるいは山城国諸蕃には「秦忌寸。太秦公宿禰と同じ祖、秦の始皇帝の後なり」とある)とその出自は違っているが、両氏はきわめて密接な関係にあったことが想像できる。つまり、賀茂氏と秦氏は共通の丹塗矢伝説をもっていたわけだ。
「鴨県主家伝」によると「賀茂社の禰宜黒彦の弟の伊侶具・都理が秦の姓を賜り、それぞれ伏見稲荷・松尾大社を作った」とあり、逆に『秦氏本系帳』によると「鴨氏人を秦氏の聟(むこ)とし、秦氏、愛聟に鴨祭を譲り与う。故に今鴨氏禰宜として祭り奉るのはこの縁なり」としている。
両氏は姻戚関係を結んでいたのは確かなようである。なお松尾大社の最初の「祝」は、丹塗矢で処女懐胎をした阿礼乎止女=知麻留女の子の都駕布で、近世までその子孫が代々、神職を世襲してきた。全国の分社の数は約1300社である。
スサノヲ(スサノオ)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十九)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十八)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)
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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十五)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十四)
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