2006年05月04日
◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(四)
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◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(四)
◆◇◆葵祭(賀茂祭)、下鴨神社と上賀茂神社の謎(四)
(6)、下鴨神社は、正式名「賀茂御祖神社」。上賀茂神社は、正式名「賀茂別雷神社」。なぜか、下鴨神社は「鴨」を、上賀茂神社は「賀茂」を使う。どうしてであろう?
※カモ川は、賀茂川と鴨川の二つをがある。地図では賀茂は下鴨神社の糺の森より(高野川合流点から)上流の川(上賀茂神社側)を呼び、下流の川を鴨川と呼ぶ(江戸時代)。「賀茂」「加茂」「鴨」と、その字を変えることで、どの場所を流れているのかを分かりやすくしていたとも考えられる。カモの字は古代から様々用いられてきたが、江戸時代中期から「鴨」と用いる場合は通称下鴨神社である「賀茂御祖神社」を云う。また、「賀茂」は、通称上賀茂神社である「賀茂別雷神社」のことを云う。両社一同に表す場合は「賀茂」となる。
(7)、そもそも、賀茂氏・鴨氏とは、どういった一族なのであろうか?。下鴨神社と上賀茂神と二社あるのはどうしてであろうか?。賀茂氏・鴨氏とは、いつから山城の国で勢力を持ち始めたのであろうか?。
※上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主の後裔である。賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などと文献に記され、神武天皇の東征に際し、熊野路を先導して功績をあげたというヤタガラスの伝説がある。このヤタガラスの建角身命が、鴨県主の遠祖であると伝えている。鴨県主は大化以前から京都の賀茂神社の祠官であったそうだ。
※上社(上賀茂神社は、正式名「賀茂別雷神社」)のものは賀茂氏を名乗り、岡本・松下・林・座田・梅辻・鳥居・小路・森の諸家を分出した。下社(下鴨神社は、正式名「賀茂御祖神社」)のものは鴨氏を称し、泉亭・梨木・鴨脚・滋岡・下田・南大路の諸家を出している。『方杖記』を著わした鴨長明もこの氏人である。
※上・下賀茂社は、基本的に上賀茂神社と下鴨神社に分かれますが、単に賀茂神社と言えば、上賀茂神社を指す。歴史的にも上賀茂神社がずっと古いもので、下鴨神社の祭祀は奈良時代の天平年間頃に始まったものとされている。なぜ下鴨神社が作られたかについては、賀茂一族の力が強すぎるので二つに分けて勢力を削ごうとしたという説や、新たにこの地区の開墾により、神社が必要になったためという説などがある。
※創建の年代は賀茂御祖神社略史によると、「創建の年代を特定することは出来ないが、『日本書記』神武天皇二年(BC658)二月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系統《葛野主殿県主部》との氏族の名がみえる。この氏族は、賀茂建角身命の先代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より十一代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が賀茂建角身命を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされる」と記されている。
※『古語拾遣』には、「加茂県主(かものあがたぬし)の遠祖八咫烏は宸駕(いでまし)を導き奉りて、瑞(みず)を菟田(うだ)の径(みち)に顕わしき」とあり、ここではヤタガラスは加茂(賀茂・鴨とも記す)県主の遠祖とされている。
スサノヲ(スサノオ)
◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(四)
◆◇◆葵祭(賀茂祭)、下鴨神社と上賀茂神社の謎(四)
(6)、下鴨神社は、正式名「賀茂御祖神社」。上賀茂神社は、正式名「賀茂別雷神社」。なぜか、下鴨神社は「鴨」を、上賀茂神社は「賀茂」を使う。どうしてであろう?
※カモ川は、賀茂川と鴨川の二つをがある。地図では賀茂は下鴨神社の糺の森より(高野川合流点から)上流の川(上賀茂神社側)を呼び、下流の川を鴨川と呼ぶ(江戸時代)。「賀茂」「加茂」「鴨」と、その字を変えることで、どの場所を流れているのかを分かりやすくしていたとも考えられる。カモの字は古代から様々用いられてきたが、江戸時代中期から「鴨」と用いる場合は通称下鴨神社である「賀茂御祖神社」を云う。また、「賀茂」は、通称上賀茂神社である「賀茂別雷神社」のことを云う。両社一同に表す場合は「賀茂」となる。
(7)、そもそも、賀茂氏・鴨氏とは、どういった一族なのであろうか?。下鴨神社と上賀茂神と二社あるのはどうしてであろうか?。賀茂氏・鴨氏とは、いつから山城の国で勢力を持ち始めたのであろうか?。
※上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主の後裔である。賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などと文献に記され、神武天皇の東征に際し、熊野路を先導して功績をあげたというヤタガラスの伝説がある。このヤタガラスの建角身命が、鴨県主の遠祖であると伝えている。鴨県主は大化以前から京都の賀茂神社の祠官であったそうだ。
※上社(上賀茂神社は、正式名「賀茂別雷神社」)のものは賀茂氏を名乗り、岡本・松下・林・座田・梅辻・鳥居・小路・森の諸家を分出した。下社(下鴨神社は、正式名「賀茂御祖神社」)のものは鴨氏を称し、泉亭・梨木・鴨脚・滋岡・下田・南大路の諸家を出している。『方杖記』を著わした鴨長明もこの氏人である。
※上・下賀茂社は、基本的に上賀茂神社と下鴨神社に分かれますが、単に賀茂神社と言えば、上賀茂神社を指す。歴史的にも上賀茂神社がずっと古いもので、下鴨神社の祭祀は奈良時代の天平年間頃に始まったものとされている。なぜ下鴨神社が作られたかについては、賀茂一族の力が強すぎるので二つに分けて勢力を削ごうとしたという説や、新たにこの地区の開墾により、神社が必要になったためという説などがある。
※創建の年代は賀茂御祖神社略史によると、「創建の年代を特定することは出来ないが、『日本書記』神武天皇二年(BC658)二月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系統《葛野主殿県主部》との氏族の名がみえる。この氏族は、賀茂建角身命の先代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より十一代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が賀茂建角身命を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされる」と記されている。
※『古語拾遣』には、「加茂県主(かものあがたぬし)の遠祖八咫烏は宸駕(いでまし)を導き奉りて、瑞(みず)を菟田(うだ)の径(みち)に顕わしき」とあり、ここではヤタガラスは加茂(賀茂・鴨とも記す)県主の遠祖とされている。
スサノヲ(スサノオ)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十九)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十八)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十五)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十四)
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