2014年05月28日
◆アマテラスの岩戸籠もり 第3回 語りかぐら in 京都・町家カフェ「月の花」
◆アマテラスの岩戸籠もり 第3回 語りかぐら in 京都・町家カフェ「月の花」
https://www.facebook.com/events/1423161034602137/
高天原でのスサノヲの乱暴な行為によってアマテラスは岩戸に身を隠してしまう。天地は闇に包まれ災いが発生する。困り果てた八百万の神々は解決策を相談する。
語りかぐら「なむぢ」のコンサートで、日本神話を読み解き、古代この国に仕組まれた大仕掛けの謎について解き明かしたいと思います。
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◇日時
2014年6月6日(金)19:00~21:00
終了後に同会場で懇親食事会をします。
◇場所
京の癒し町家カフェ「月の花」
〒600-8072 京都府京都市下京区
綾小路通堺町東入ル綾材木町206-1
075-201-1125
阪急電車「烏丸」駅徒歩3分、地下鉄「四条」駅徒歩5分
◇地図
http://goo.gl/maps/ItFmF
◇料金
¥2,500(1ドリンク付)
◇定員
10名
◇語りかぐら「なむぢ」<Facebook>
https://www.facebook.com/namudi8
◇語りかぐら 「なむぢ」<Jimdo>
http://namudi8.jimdo.com/
◇日本の神話~神々に出会う旅~
http://nihon-shinwa.jimdo.com/
◇日本神話で学ぶ「日本のこころ」
http://kokoro-nippon.jimdo.com/
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◆「2014年 語りかぐら・なむぢ」の年間スケジュール
1、日本神話への誘い~日本の神々に出会う~
イザナギとイザナミは先に出現した神々から「天の沼矛」を授かって国産みを始めた。次々と誕生した島々「大八島国」は現在の日本列島の原型となった。更に多くの神々を産んだが、最後に産んだ火の神でイザナミが火傷をし、黄泉の国へ下ることになる。
2、黄泉の国と三貴子誕生
妻・イザナミを慕って黄泉の国へ入ったイザナギ。しかしそこで見たイザナミの姿は醜く穢れていた。慌てて逃げ出すイザナギにイザナミの追っ手が迫る。
3、アマテラスの岩戸籠もり
2014年6月開催 場所:京都四条烏丸「町家カフェ・月の花」
高天原でのスサノヲの乱暴な行為によってアマテラスは岩戸に身を隠してしまう。天地は闇に包まれ災いが発生する。困り果てた八百万の神々は解決策を相談する。
4、スサノヲとヤマタノオロチ
2014年8月開催 場所:京都四条烏丸「町家カフェ・月の花」
高天原を追放されたスサノヲは出雲の国へ降りる。そこで出会ったクシナダヒメを救うためにスサノヲはヤマタノオロチを退治する。
5、オオクニヌシと因幡の素兎
2014年10月開催 場所:京都四条烏丸「町家カフェ・月の花」
日本の昔話としても知られる「因幡の素兎」だが、『古事記』ではオオクニヌシがなぜ国造りを行うことになったかを示す物語。
6、オオクニヌシの国造りと国譲り
2014年12月開催 場所:京都四条烏丸「町家カフェ・月の花」
葦原中国(日本国)の基礎を作ったオオクニヌシに対して、高天原の神々は国譲りを要求。オオクニヌシは幽界の王となり退く。
◆来年2014年予定
京都発! 出雲大社と伊勢神宮を巡る御蔭(神縁)コンサート「語りかぐら」
2泊3日、出雲・伊勢・京都でコンサートを行います。
◆「なむぢ」
日本各地の神話を「語り」と「音楽」で伝え、日本人としての素晴らしさを再確認することを目的に「なむぢが」デビューしました。
https://www.facebook.com/namudi8
◆即興演奏 日向真(ひなたしん)
京都在住。風鈴演奏家。おとだま制作・奏者。
いにしえから聖なる山と呼ばれる京都・東山の森に風鈴ハウス「風処(かぜどころ)」を構え、インスピレーションを受けて数多くの楽曲を発表。京都から日本の風鈴ミュージックを世界へ発信している。
テレビや新聞などで全国的に知られる。
健康雑誌「壮快」では魔法の音として過去13回紹介。
日本各地の治療院で利用され支持をうけている。
◆神話の語り部・スサノヲこと山本 一男
「日本」とは何か?「日本人」とは何か?が知りたくて、日本学、民俗学、宗教民族学などを中心に日本と日本人の原点と基層を調べて早20年が経つ。
今を生きる多くの人たちの姿を見ると、日本の文化・歴史についてあまり関心が無いようで、多くを外からの情報に翻弄され刹那的に行動しているように見える。このような自らの拠り所を失い根無し草のよ うに漂うさまを見るにつけ、自らのアイデンティティをしっかりと見つめ直し、日本列島の自然と風土の中で作り出してきた日本独自な精神文化と日本人であることとを自覚すること が必要だと感じるようになった。
また国際化が叫ばれて久しいですが、本当の意味で国際人になるためにも、自らことを自らの国のことをしっかり伝えることが出来て、はじめて国際人だと言えるのだと思う。
特に日本の伝統・伝承・神話や地域に残る風習・祭り・行事などの背景(背後)のあるものは、豊かな森と水の日本列島という風土が醸し出した古代の人々の世界観(素朴な神々の世界観)の記憶だ。 実は今も地下水脈のようにつながり生き続けているのである。
私たちは普段、こういう事(古代からの世界観)をまったく意識することなく生活している。しかし気付かなくとも、ほんとうは私たち日本人のものの見方や生き方を規定している「何か」があるのだ。
こうした私たち日本人の意識の底に眠った記憶とは、太古の昔から今日に至るまで、連綿とつないできた貴重な精神の遺産であり、大自然に宿る日本人の 原風景でもある。
実は私たち日本人とは、長い時間をかけてこのような古代から日本列島の自然(恵みと災害)とうまく折り合いをつけ、柔らかい関係を結び、共に生きることを選んだ民族が日本人なのだ。
今一度、こうした日本人の知恵を魂を学んでみよう。
【参加者の感想】
◇なむじさんの神話の語り。次元を超えるかのような、世界観に引き込まれました。神話の流れを聞いて、色々と神様の繋がりに腑に落ちるところがあり、興味深く聞き入りました。素敵な時間をありがとうございます。
◇絶妙な「間」を持たせた山本さんの語りと、幻想的で魂に響く日向さんの音楽・・・そしてクライマックスは衝撃の出雲王朝の秘。むなぢワールドに吸い込まれた時間でした。なんだか村上春樹作品の空気と似たものを感じたのは私だけ?
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Posted by スサノヲ(スサノオ) at
08:10
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2006年08月22日
◆幻の近江高島虎斑石硯 、滋賀県伝統工芸品
地図はこちら◆幻の近江高島虎斑石硯 、滋賀県伝統工芸品
現在は鉱脈が途絶えた、残り僅かしかない硯だそうだ。
職人も福井正男氏ただ一人となり、幻の硯となるという。
◆高島虎斑石硯の歴史
高島硯の起源は、天正年間、織田信長によって比叡山三千坊の焼き討ちにあい、一族郎党を引き連れ落ち延びた、能登之守高城の末孫「貞次」によると言われている。一族が現在の安曇川町で農耕し生計をたてていた頃、貞次が阿弥陀山で、偶然、傳教大師が唐より携えた硯の材料によく似た玄昌石を発見した。これをきっかけに一族は硯への彫刻を始めたそうだ。
徳川時代には高島硯は北陸・関東・京阪地方にその名を知られていた。 明治に入って虎斑石の鉱脈が発見され、その名声はいよいよ全国的なものとなり、大正天皇の御大典記念には虎斑石硯が献上された。
写真は大正初期のもので多くの職人たちが働いている様子が伺える。農業の傍ら、夏から冬にかけて硯を作り、年間10万面生産した時期もあったそうである。現在は、かつての全盛時代の面影を失ったが、福井正男氏ただ一人が、従来からの硯に自然石硯を加えた虎斑石本来の美しさと手彫りの優雅さを観賞する郷土美術品として、ごく僅かにその生産を維持している。
◆工房と制作の様子
福井永昌堂5代目福井泰石氏が制作する高島虎斑石硯は、ひとつひとつが丹念に手仕事で仕上げられる。自宅裏に建てられた、もう何十年も使用された作業小屋が福井氏の工房。福井氏はいつもここで、ひとり黙々と硯をつくり続けている。
工房の片隅には採掘されたままの原石がある。既に鉱脈は堀り尽くされ、残された原石はここにあるものだけだ。しかも、全てが硯になるとは限らないのである。中にはヒビ割れて商品価値のないものもある。だから、福井氏がひとつひとつの石の性質を見極め、作業をすすめていく。
◆福井正男氏の作品
◆福井永昌堂と阪田永昌堂
阪田永昌堂は、福井永昌堂五代目福井泰石の実娘 阪田久枝(旧姓福井)が、より多くの書道愛好家に300年以上続く高島虎斑石硯の素晴らしさを、知っていただこうという思いにより運営されているサイトです。
阪田永昌堂
http://e-suzuri.com/
現在は鉱脈が途絶えた、残り僅かしかない硯だそうだ。
職人も福井正男氏ただ一人となり、幻の硯となるという。
◆高島虎斑石硯の歴史
高島硯の起源は、天正年間、織田信長によって比叡山三千坊の焼き討ちにあい、一族郎党を引き連れ落ち延びた、能登之守高城の末孫「貞次」によると言われている。一族が現在の安曇川町で農耕し生計をたてていた頃、貞次が阿弥陀山で、偶然、傳教大師が唐より携えた硯の材料によく似た玄昌石を発見した。これをきっかけに一族は硯への彫刻を始めたそうだ。
徳川時代には高島硯は北陸・関東・京阪地方にその名を知られていた。 明治に入って虎斑石の鉱脈が発見され、その名声はいよいよ全国的なものとなり、大正天皇の御大典記念には虎斑石硯が献上された。
写真は大正初期のもので多くの職人たちが働いている様子が伺える。農業の傍ら、夏から冬にかけて硯を作り、年間10万面生産した時期もあったそうである。現在は、かつての全盛時代の面影を失ったが、福井正男氏ただ一人が、従来からの硯に自然石硯を加えた虎斑石本来の美しさと手彫りの優雅さを観賞する郷土美術品として、ごく僅かにその生産を維持している。
◆工房と制作の様子
福井永昌堂5代目福井泰石氏が制作する高島虎斑石硯は、ひとつひとつが丹念に手仕事で仕上げられる。自宅裏に建てられた、もう何十年も使用された作業小屋が福井氏の工房。福井氏はいつもここで、ひとり黙々と硯をつくり続けている。
工房の片隅には採掘されたままの原石がある。既に鉱脈は堀り尽くされ、残された原石はここにあるものだけだ。しかも、全てが硯になるとは限らないのである。中にはヒビ割れて商品価値のないものもある。だから、福井氏がひとつひとつの石の性質を見極め、作業をすすめていく。
◆福井正男氏の作品
◆福井永昌堂と阪田永昌堂
阪田永昌堂は、福井永昌堂五代目福井泰石の実娘 阪田久枝(旧姓福井)が、より多くの書道愛好家に300年以上続く高島虎斑石硯の素晴らしさを、知っていただこうという思いにより運営されているサイトです。
阪田永昌堂
http://e-suzuri.com/
2006年08月13日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十九)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十九)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社の祭神・中津島姫命(市杵島姫神)と宗形海人(2)
宗像三女神(道主貴=みちぬしのむち、海北道中の航海守護の神)は北九州と朝鮮半島の海路(航路)・玄海灘に祀られている(宇佐氏の宇佐嶋に天降ったとする伝承もあり、『宇佐氏系図』によると宇佐津彦は宗像三女神の御子とされている)。
田心姫は玄海灘の只中にある沖ノ島の沖津宮に、湍津姫は筑前大島の中津宮に、市杵嶋姫は北九州の辺津宮(田島)と三宮(三宮を総称して宗像大社)に祀られている(『古事記』は田心姫と大国主の間にアジスキタカヒコネ命と高比売命が生まれたとし、『旧事本紀』は湍津姫と大己貴との間に八重言代主命と高照光姫命が生まれたとしているところから、宗像地方と出雲地方の密接な関係を窺わせる)。(※注1)
このように海神を三柱の神を一組として祀る形は、航海民・海人族の信仰によく見られる(阿曇氏の三神と津守氏の三神は、伊弉諾尊の日向の橘の小戸の阿波岐原での禊ぎ祓いの神話で登場)。
宗像三女神は、玄海灘の海人を統率していた宗像氏(胸形君・胸宗肩君・宗形君、宗像海人は『魏志倭人伝』にあるような「黥面文身」を胸に入墨をしていたため、胸形の名がつけられたのではないかと考えられている。大化の改新後ほどなくしてに神主職と大領を兼帯。一つの郡全部が神社に属する特別な地域「神郡」が全国で七社八郡あり、宗像郡はこの「神郡」となります)が奉祭していた海神であったのだ(『日本書紀』第六段の一書には「此れ、筑紫の水沼君らが祭の神」とあり、筑後・水沼氏も奉祭していた)。
宗像氏が奉祭する海神(宗像三女神)がなぜ「アマテラス・スサノヲの誓約神話」という重要な神話に登場するようになったのであろうか?
阿曇氏の綿津見三神(底津・中津・表津少童命、志賀海神社・海神社・綿津見神社)と津守(住吉)氏の筒男三神(底筒・中筒・表筒男命、住吉神社)は、大和朝廷の有力な豪族の一員であったため(特に住吉の神は神功皇后の三韓遠征説話で軍船の守神・航海の神とされる)、比較的新しい時期に『記・紀』神話の体系に加えられたようだ。
宗像氏の三女神(田心姫・湍津姫・市杵嶋姫、宗像大社)も、朝鮮半島との重要な航路(文化の導入・交易・大規模な戦闘など)である、荒れる玄海灘の航路・海北道中の海人を支配している宗像氏を、朝鮮半島への航路を確保するためにも、大和朝廷に懐柔する目的があったのかもしれない。
このように、大和朝廷は重要な航海の要所の豪族を取り込む必要があったと考えられる(胸形=宗像氏は大化の改心以降、大和朝廷との結び付きが強く、天武天皇の妃・高市皇子の母は胸形君徳善の尼子娘で、奈良県櫻井市外山の宗像神社は一族の神社である)。
そして宗像神は海人氏族の神から国家祭祀の神へと変質していく。またそのことは、御神木と神紋からも窺い知ることができる。
胸形(宗像)氏は元々「楢の実をあしらった紋」を持っていたが、宗像大社そのものは神社にいけば一目瞭然「十六菊」、つまり天皇家の家紋を使用している。これはアマテラスの神勅通り、何時の頃からか大和朝廷の支配権が地方の一氏族を越えて統治の手が入った事を物語っている。
つまり、この地域は大和朝廷の管轄下となり、管理人が宗像氏だったことを意味する。沖ノ島の国家的祭祀に類推される出土がそれを物語っているようだ。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 玄海灘の孤島・沖ノ島は宗像の神湊から約57キロ沖にあり、古代から朝鮮半島・大陸への航海の目標であり、海人の信仰を集めてきた神の島だ。
また海の正倉院とも呼ばれるように、古代祭祀に関係する遺物がたくさん出土している。この島は今でも神々と神主以外は誰も足を踏み入れることができない禁足地で、「島にやむなく立ち寄った者は、島の事をみだりに語ってはいけない」「島の木々一草も持ち帰ってはいけない」「島に入る者は、海中でみそぎをする」という禁忌がある神聖かつ特別な神の島(不言様・不言島)である。
スサノヲ(スサノオ)
2006年08月12日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十八)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十八)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社の祭神・中津島姫命(市杵島姫神)と宗形海人(1)
『本朝月令』松尾祭事所引の『秦氏本系帳』に次のような記事がある。「秦氏本系帳に云く。正一位勲一等松尾大社の御社は、筑紫胸形に坐す中部の大神。戌辰年三月三日、松埼日尾(又日埼岑と云ふ)に天下り坐す。大宝元年、川辺腹男秦忌寸都理、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹女秦忌寸都賀布、戌午年より祝(はふり)となる。子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十年。」とある。
このように松尾大社の祭神は、大山昨神の他にもう一座、中津島姫命が戌辰年三月三日に「松埼日尾」に降臨したとしている。その後、大宝元年(701年)に秦忌寸都理が「松埼日尾」から松尾に勧請し、社殿を営んで、知麻留女に奉斎させ、その子・秦忌寸都賀布以降、子孫が代々祝となったという。
松尾大社の祭神を、筑紫胸形に坐す中部の大神と記されているが、この神は今の福岡の宗像三神の市杵嶋姫命を指す。大山昨神と一緒に祀られていたのが日吉大社の鴨玉依姫ではなく、宗像三神の市杵嶋姫命であることは大変興味深いことだ。
なぜ市杵嶋姫命が祀られたのであろうか。桂川(大堰川)の右岸の岩田山に、古い創建の市杵嶋姫命を祀る櫟谷(いたに・いちたに)神社と宗像神社(天智天皇=668年に筑紫の宗像から勧請されたと伝えてる)がある。
このことは、松尾神の磐座祭祀の時代から、市杵嶋姫命が近くに祀られていたことを示し、大宝元年(701年)に神殿が造営された時に、改めて松尾大社にも祭祀されたものと考えられる。
ではなぜ、秦氏の本拠地とされる葛野の地に市杵嶋姫命が祀られていたのであろうか。
秦氏が宗像神を信仰する理由については、秦氏が渡来人として大陸との通交上、宗像神を「道主貴(みちぬしのむち)」として信奉していたものと考えられる。秦氏(秦=パタ=海とも)が朝鮮半島からの渡来人であるということを考えると、関連があるのかもしれない。
このことは、宗像神を奉斎する集団が渡来に際して神と共に移住してきた状況を推測させる。宗像神は海路守護の海上神であり、筑紫国宗像郡は海外文化・人物に受け入れ口であることを考えると、松尾の秦氏が玄海灘の宗像を経由して山城国に至ったとも考えられるのだ。すると、松尾大社は山の神・大山咋神と海の神・市杵嶋姫命と、海と山の両神を祀る神社ということになる。
ではなぜ、大宝元年に宗像神が勧請されなければならなかったのであろうか。大宝元年というのは『大宝律令』が出来、祭神を律令制度の中に位置付けようとした年だ。
ここで大山咋神と市杵嶋姫命の結婚が行われたとも考えられる。これは、天武天皇が胸形徳善の娘の尼子娘を娶って高市皇子が生まれて以後、宗像の神は全盛期となったことと関係がありそうだ(宗像神社は全国に6000社余も分祀され発展する)。
胸形君とは後の宗像氏のことで、この当時すでに中央にかなりの影響力を持っていた(神功皇后は朝鮮征伐の際、宗像神の神威をかりたと伝えられている。宗像神は玄海灘一帯の海人族の崇敬をうけており、宗像の地は大化改新以降「神郡」となる)。
また天武十三年には「朝臣」の姓を賜っている。宗像(胸形)氏も秦氏と同様に、新羅・加耶から渡来した産鉄氏族であったのであろう。
また、中央に祭官として出仕した壱岐氏は、壱岐で祀っていた月神を山城国葛野郡に移して月読神社を祀る。葛野坐月読神社は松尾大社の第一摂社であり、壱岐氏が奉斎する神社であることを考えると興味深いことだ。
葛野の秦氏は豊前国の秦部(宗像神は最初、宇佐島に降臨したとも)と祖先伝承など何らかの関係を持ち、その関係が大宝元年になって強まり、宗像神の勧請という事態に至ったのではないかとも推測できる。
そして秦氏と宗像大社(秦氏と宗像氏)との関わりからか、磐座信仰の宗像神を日埼峯に降臨させたのが、『秦氏本系帳』の伝承となったとも考えられる。
さらに、当時の文武天皇の御世の政策は、律令国家整備の一環として、地方諸国への支配体制を整え始めていた時期でもあり、朝鮮半島と北九州との関係も頻繁となっていた。こうした様々な要因が山城国葛野郡に影響を及ぼしたのであろう。
スサノヲ(スサノオ)
2006年08月11日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十七)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(5)
対馬・壱岐は、日本列島と朝鮮半島の古代における文化・交易(輸入鉄など)の海上の輸送の経路であり、重要な位置にある。
ただ地理的形態は全く違い、対馬は『魏志・倭人伝』に「土地は山険しく、深林多く・・・良田無し」とあるように、海面からいきなり山がそそり立つ耕地の少ない山の島だ。それに引き換え、壱岐は山の少ない平坦な島で、耕地になる土地も多く水にも恵まれている。
また壱岐の原の辻遺跡や唐神遺跡からは、弥生時代の大規模多重環濠集落跡やわが国最古の船着き場跡、床大引き材、人面石、棹ばかりの重り「権(けん)」など第一級品が多数出土している。
もう一つ対馬・壱岐は、日本の古代史にとって見逃せない重要な意味を持っているのだ。それは、『記・紀』神話や古典神道の成立に与えた影響である。
卜占は、古代日本では太占(ふとまに)とも呼ばれ、鹿占・亀占など動物の骨を焼き、そのひび割れ状態(占状)で吉凶を占うものである。こうした骨占は古代の北方アジアの諸民族の習俗で、朝鮮半島を経て、対馬・壱岐に伝わり、日本本土にもたらされた(神聖感覚を主体とする原始神道には卜占などはなかったが、対馬・壱岐から伝わった卜占は古典神道に多大な影響を与える)。
この卜占・骨占という技術によって天の意思(天=テングリの信仰(祭天の古俗)は本来、北方アジアの草原の遊牧民の信仰であったようだ)を知り、地上の王以下に対してその運命を教えたのである(天の信仰・思想とともに卜占・骨占が成立していく)。
こうした卜占の技術・亀占に優れた者を朝廷に呼ばれ、宮廷祭祀の吏員として登用していく。『大宝律令』制定(701年)のとき、神祇官の職掌名として「卜部」という者が20人(対馬卜部10人、壱岐5人、伊豆5人)登用されていた。
古典神道の「天つ神」「天(あま・あめ)」的思想は、北方アジアの諸民族の信仰の祭天の古俗、天を祀り天の意思を知るために、王みずからが神主の長となった祭天の古俗に、卜占・骨占を行う習俗の源を見ることができそうだ。
こうした祭天の古俗は、北方アジアの諸民族に維持されつつ朝鮮半島を南下し、対馬・壱岐に伝えら対馬・壱岐の卜部を生み出す(中国では殷代に骨占が伝えられ、漢代では天の思想が哲学的に深められる)。卜占は古代世界において、最新の技術であり思想であったのだ(卜占の術が対馬・壱岐に集中している所にこの地の重要性がある)。
宮廷祭祀に登用された対馬・壱岐の卜部たち(卜部官)は、こうした「天つ神」「天(あま・あめ)」的思想を宮廷神話に持ち込み、大王(天皇)のルーツが高天原に住む神々であるとする宮廷神話を生み出す。宮廷祭祀の実権を握った中臣氏と政治の実権を握った藤原氏は、天皇制中央集権国家(律令国家)を支える『記・紀』神話と神祇制度(『大宝律令』制定、701年)を確立するのである。
この「天つ神」の神々を対馬・壱岐で多く見ることができる。対馬の下県郡厳原町豆酸の高御魂神社(高皇産霊尊)、上県郡上県町佐護の神御魂神社(神皇産霊尊)、下県郡美津島町小船越の阿麻テ留神社(天照魂・天日神、オヒデリ)、壱岐島壱岐郡の月読神社(月読尊)などがあり、他にも上県郡の和多都美御子(わたつみみこ)神社(豊玉毘賣の子、鵜葺草葺不合命)などがある。
ただ、対馬、壱岐には海洋漁労の民としての海神を祀る海神神社もあり、本来的には海人族の拠点であったことは変わない(多くの海神社は住吉社へと変わっていく)。また、この海人族は海幸・山幸の伝承を持ち、『記・紀』神話に吸い上げられたのであろうか(豊玉毘賣を祀る和多都美神社。海神神社には山幸伝承があり豊玉毘賣を祀る)。
対馬、壱岐の地に、「天(あま・あめ)」「天つ神(天を象徴する神々)」の基になった祭天の古俗が伝承されており、宮中で亀占の祭祀を行う対馬、壱岐の卜部たちが、「天(あま・あめ)」の思想や「天つ神」「高天原」の神々を宮廷神話に持ち込んだであろう事が窺えるのだ。
スサノヲ(スサノオ)
2006年08月07日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(4)
『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に、阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(あらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあり、この託宣した月神は壱岐の月読神社の祭神(壱岐海人の海を支配する荒ぶる神。『先代旧事本紀』では天月神命、壱岐県主の祖神)とみられ、葛野坐月読神社の月読神は壱岐から勧請されたと考えられる。
壱岐(芦辺町国分東触)には、月読神社(旧無格社、古称は清月、山の神)が鎮座する。祭神は中:月夜見尊、左:月弓尊、右:月讀尊とあり、芦辺港から西へ、約2キロメートルの山の端に鎮座する。
この月読神社は古来、清月・山の神と呼ばれており、山の神を祀る神社であったが、延宝年間に、延宝の神社改めの際、平戸藩の国学者橘三喜によって、深月・清月の地名から月読神社とされた。しかし、この月読神社には古い由緒がなく、以前はただ「山の神」と称しただけであったようだ。
では本来、月読神社は何処にあったのであろうか。『式内社調査報告』では、箱崎にある八幡宮の相殿に、天月神命が祀られており、棟札にも「箱崎八幡宮月讀宮・・・」と記されているところから、原初の鎮座地は「オンダケ山」(男岳)であったと考証されている。また、箱崎八幡宮の宮司が壱岐の古い社家(壱岐氏)であることも、月読神社の有力な根拠となっている。
また、この月神の託宣(『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条)に続いて日神の託宣があるが、それは対馬にある阿麻テ留(あまてる)神社の祭神とみられている。
さらに、この日神・月神二神が我が祖(みおや)と呼んだ高皇産霊は、対馬の高御魂(たかみむすび)、壱岐の高御祖(たかみおや)とみられている。
このことからも、古くから対馬の古族(対馬県直)は日神を祀り、壱岐の古族(壱岐県)は月神を祀っていたことが知られ、それは亀卜と関係していたものと考えられていた。
そして、壱岐の月神に山背国葛野郡の歌荒樔田を献ったということは、壱岐県主の一族が中央に出て朝廷の卜部(うらべ、卜部氏は卜兆の職掌に携わった氏族で神祇官に出仕し卜占=亀卜や祓に従事した)となったことから、その祭祀を畿内に遷したときの所伝とみられている(『記・紀』の神統譜に持ち込まれたのか)。
また、日本神話の天照神は対馬、月読神は壱岐を本祀としたものとも考えられ、ムスビ(皇産霊)の神も対馬・壱岐二島にあり、神道の形成時に卜部が重要な役割を果たしたものと考えられる(任那滅亡の時期、朝鮮半島に対する対馬・壱岐の重要度が増し、卜部が中央祭祀に関わる)。(※注1)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 対馬や壱岐は日本列島と朝鮮半島との間に位置し、大陸との文物交流・海上交通の中継地として古代より重視されてた。式内社も多く、神祇官の亀卜を担当する卜部氏の出身地でもある。
対馬や壱岐は本州の影響から隔てられていたため、神社形態も発展せず、聖地信仰的要素の強い小祠が圧倒的である(社殿・神体を伴わない亀卜を中心とする祭祀形態)。しかし、これは古代の神祇信仰の形態が保存されされているとみることもでる。
また、天道信仰(日神とその子の天道=天童にまつわる日神・祖霊・穀霊信仰であり東洋的祭天の古俗、天道地は一種の聖地信仰)や岳信仰には中国大陸・朝鮮半島の影響もみられる。
ムスビ信仰としての高御魂神社と神御魂神社、日神信仰としての阿麻テ留神社、月信仰としての月読神社、海神信仰としての和多都美神社、天神信仰としての天神多久頭多麻神社など古い信仰形態(神道の原形)を多く残している(アマテラスとスサノオ命の葛藤・対立関係は、対馬の古邑に天神と雷神が対照的に祀られている状況に関わりがあるのであろうか)。
スサノヲ(スサノオ)
2006年08月04日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十五)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十五)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(3)
『山城国風土記』逸文には月読尊がアマテラス(天照大神)の勅(みことのり)を受けて「豊葦原の中つ国に降りて、保食神(うけもちのかみ)のもとに到りましき」とある。この神話は『日本書紀』(神代巻)第十一の一書の月読尊が豊葦原の中つ国へ派遣される話だ。
月読尊は、『記・紀』神話では余り活躍しないが、この神話では、アマテラス(天照大神)の命令を受けて中つ国に向かい、穀物神である保食神(うけもちのかみ)のもてなしを受けたが、保食神が魚や狩りの獲物を口から吐き出して饗応したので、汚らわしいと怒って、ついに保食神を剣で惨殺してしまう。
ことの有様を知った天照大神は、月読尊は悪神であるといい、もう会わないとといって、ついには両神は「一日一夜、へだてはなれて住みたまふ」ことになったという。
どうして、この神話が『山城国風土記』に収載されたのであろうか…?。それについては以下のような事情があったようだ。
それは『続日本紀』に大宝元年(701年)四月の勅(みことのり)に「山背国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志(はつかし)神などの神稲は、今より以降、中臣氏に給へ」とある。
この月読神は、『延喜式』に記す葛野坐月読神社の神のことで、『山城国風土記』が編纂されたころには、山城国にすでに月読神を祀る祠(神社)があったので、その縁起譚として月読尊の神話が収録されることになったようだ。
この月読尊は、『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(うたあらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあるように、壱岐から分祀(勧請)された。
顕宗天皇三年(487年)が実年代でないにしても、葛野坐月読神社の月読神が壱岐から勧請されたものであることは確かなようだ。
壱岐には亀卜を行う卜部がいたが、朝廷から重視された四ヶ国卜部(壱岐卜部、対馬卜部、奈良卜部、伊豆卜部)の一つが壱岐卜部である(壱岐のト占・亀ト、当時最新の思想と技術が畿内に初めて導入されたことを示している。朝廷により招聘された壱岐のト術に優れた者はのちに卜部氏となり宮廷祭祀で中臣氏とともに従事した)。
この壱岐卜部は山城国葛野とも密接な繋がりを持っていた(山城国葛野を開拓した秦氏がいたためであろう)。また、『山城国風土記』逸文に、葛野の賀茂社の祭り(賀茂祭)に壱岐卜部若日子が関係した伝承があるのも、そのことを表している。
壱岐の月神は本来、海人族に信奉されていた航海の神だ。海を生活の基盤とする海人族にとって、月齢を読んで潮の干満を知った。壱岐の海人族の月神の原初の姿が、内陸地に移されると農民生活に関わる農耕神へと変化していったと思われる。
『延喜式』には、伊勢神宮内宮の月読神社・月読荒魂神社、外宮の四所別宮の月夜見宮や丹波国桑田郡小川の月神社がみえる。これらの月読神(月夜見神)も海人族の奉斎した神であったのであろう。(※注1)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)月神を祀る神社は、大きく分けて三系統に分かれそうだ。一つは伊勢神宮内宮の月読神社・月読荒魂神社、外宮の四所別宮の月夜見宮、山城国葛野郡の葛野坐月読神社、丹波国桑田郡小川の月神社、壱岐国壱岐郡の月読神社で、この月神(月読神)は、壱岐の古族(壱岐県主)によって勧請されたと考えられる。
もう一つ、 山城国綴喜郡樺井の月神社(月読神社)は隼人によって勧請されたと考えられ、さらに出羽国飽海郡の月山神社(出羽三山のひとつとして修験道で有名な月山の頂にある)は、月読命が神仏習合時代には本地仏に阿弥陀如来が当てられ合わせて祀られていた。しかし本来、月山信仰は月の見える山の際(頂)に祭祀の場を設けた太陰信仰であったようだ。
スサノヲ(スサノオ)
2006年08月03日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十四)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十四)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(2)
松尾大社から山沿いの小道を南へ少し行くと、月神(月読神・月読尊・月読命)を祀る「葛野坐月読神社」(祭神は『旧事本紀』にいう天月読命)がひっそりと建っている。
この神社は松尾大社の摂社であるが、およそ1500年前に京都(山城国)に鎮座したとされる古社である(はたして葛野坐月読神社の創建・顕宗三年=487年が実年代であったかはわからない。また羽束師坐高御産日神社は対馬国か壱岐国から奉祭された考えられている。今は秦氏の氏神・松尾大社【創建は大宝元年=701年】の摂社となっており、歴代の祝などから秦氏と密接な関係であったようだ)。社殿はけっして大きくなく、そこに管理人がいるわけでなく多少寂れた雰囲気である。
月読神社の創祀に関しては、『日本書紀』に記載がある。『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に、阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(うたあらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあり、この月神は壱岐の月読神社の祭神とみられるのである(『日本書紀』頭注は「歌は葛野郡宇太村(後の平安京の造られた地)、荒樔は産(あ)るの他動詞で、神の誕生の意」)。
この月読神社は斎衡三年(856年)に、水害を恐れて松尾山南麓の現在の地に遷ったと伝えている。そして松尾大社が従一位に進んだ貞観元年(859年)には、月読神社神社は正二位に進み、さらに貞観十一年(869年)に従一位に、延喜六年(906年)には正一位勲二等を授かり、『延喜式』神名帳では名神大社(月次・新嘗)に列せられている。
このように名社であるが、古くから松尾大社の摂社で、その管理は松尾大社が行ってきたという(社務の実権は摂社の月読神社の長官中臣系の伊岐使=松室氏が掌握していたとも)。
しかし、略歴をみると創祀も祭祀者も異にしながら摂社とされて祀られているところから、秦氏の氏神・松尾大社との密接な関係にあったようである。
月読神社は天文・暦教・卜占・航海神として崇められていたようだ。ではなぜ海のない山城国に航海神が必要であったのであろうか。
閑静な境内には、御船社(松尾大社の大祭に唐櫃を出すが、これは月神が船に乗って渡御することを示し、月神が海人によって信仰されていた名残りである)と聖徳太子社(月読尊を尊崇した聖徳太子の徳を称えて祀ったものといわれている)があり、その隣には月延石と称する石(神功皇后が腹を撫でて安産された石を、月読尊の神託により舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求めて奉納されたという伝説がある。
神功皇后の安産石や月神の伝説は九州の神社に多く、築後国の高良大社の祭神・高良玉垂神は「月神の垂迹」とする説がある)がある。
ただ、この安産石は斉明天皇が朝鮮半島遠征の際し、神功皇后ゆかりの月延石(月の満ち欠けには出産を早めたり延ばしたりする霊力があるとみられていた)を納めて勝利を祈願したことに由来したようだ。
月読神社の鎮座する葛野郡には、月に関わる地名が嵐山・嵯峨野など平安京の西側に集中している。葛野の大堰(おおい)の近くの「渡月橋」「桂川」「桂離宮」などがあり、桂は中国では月にある想像上の樹だとされ、転じて月を指すようになったようだ。
また、松尾大社の大祭・松尾祭(古くは葵祭と呼ばれた)は葵と桂で彩られる(賀茂祭・日吉祭でも彩られる)。こうした桂のイメージは、この葛野坐月読神社に由来し、月読神のシンボルが桂であったからであろうか…?
ちなみに賀茂社のシンボルが葵である(伴信友の『瀬見小河』に「かつらの枝は松尾の御やしろの御たくせんおはして、けふにさしそへたまひぬ、・・・さて桂を松尾神の託宣にかけていへるは、一傳なるべし、また此葵桂を日吉神祭にも用ふ、其は賀茂に因縁ありての事ときこえり・・・」)。
スサノヲ(スサノオ)
2006年08月02日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十三)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十三)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(1)
京都(山城国)には、月に関わる地名が、嵐山・嵯峨野など平安京の西側に集中している(但し、木嶋坐天照御魂神社=このしまいますあまてるみたまじんじゃ=別名:蚕の社のように太陽信仰の遥拝所と見られる社もある)。
例えば、嵐山にある葛野の大堰(おおい)の近くに「渡月橋」がある。「渡月橋」とは月の世界に渡る橋という意味なのであろううか(「渡月橋」という名前は亀山天皇が「くまなき月が渡る」のに似るという意味から名付けたという)。
すると、橋のこの辺りや向こうは月世界となり、玉兎が餅つきをしている幻想世界だということになる。
この月橋の下を流れる川は、渡月橋の源流付近が大堰川で、保津峡あたりが保津川で、そして下流を桂川といい淀川に合流する(これらは、すべて河川法上、桂川に統一されている)。
大堰川は葛野の大堰に由来するが、桂川の名前は、何に由来するのであろうか…? この河川名は、平安時代の紀貫之(きのつらゆき)以来の名称といわれ、川西一帯の桂の地名に由来する。
古代の『釈日本紀』に葛川とあり、葛野(かどの)郡という地名にちなんで、葛野川と呼ばれていたそうでだ。葛と桂は、相通じる意味があり、川辺にカヅラかカツラが茂っていたか、カヅラのツルのように流路がクネクネと蛇行していたのではないかともいわれている(「葛」は一般には蔓(つる)の「かずら」と考えられている。しかし「桂」の落葉種の高木とみる考えもある)。
また、『山城国風土記』逸文には「桂里」の記事があり、桂が神聖な樹木(月と桂には不死の生命力・霊力があり、桂の里とは再生の聖地)であることがわかる。
しかし「桂」といえば、京都では「桂離宮」が有名であるが、それがあるのは、やはり渡月橋の向こう側の桂川の西岸である。つまり、地上を離れた月世界にある宮、それが桂離宮なのだ。すると、桂の意味も月と深く関係していそうだ。
桂の樹木は、高さ約30メートルほどのカツラ科の落葉高木で、春、葉に先立って紅色を帯びた細花を房状につける(樹皮は灰色で、葉は卵心形。雌雄異株。果実は円柱形の袋果。材は軽く軟らかく加工が容易で、家具・彫刻・器具用になる)。
桂にはもう一つ意味がある。それは、中国では、月にあるといわれる想像上の樹木(月の桂)のことなのだ(『酉陽雑爼』に月の中に桂の木とガマガエルがいるといい、不死と桂の伝承を伝えている)。
このように古代、嵐山・嵯峨野など平安京の西側、特に渡月橋で渡った桂川の西側は月の世界とみられていたようなのだ。月の世界、想像上の樹木(月の桂)とくると、そこには不老不死の思想、つまり中国の道教的な神仙思想の影響を窺うことが出来そうだ。
月の世界とは、不老不死の仙人が住むとされた理想郷であった(月で不死の薬草を搗-兎の説話は、西王母・せいおうぼ、西方の仙界・崑崙山に棲むという-の神話に属し、仙界の一つが月世界であった。蓬莱山なども)。
月は新月と満月を繰り返し、一度消えて復活することから、古代人は不死を感じたのであろう。『竹取物語』には、月に不死の薬があるとされている。かぐや姫は昇天の際、月世界に戻るため不死の薬を少し嘗め、残りを翁に渡し、翁は天皇に献上しいる。
このことからわかるように、桂川の辺りや西側は月世界なのだ。きっと平安時代の宮廷貴族たちは、中秋の名月を眺めながら、はるかな月世界に思いを馳せ、そのイメージを桂川の西に再現したのかもしれない。
この辺りは秦氏が開拓・開発した地域である(南部には高麗氏、北部には賀茂氏、東部には八坂の造の一族が住み着き、いわば京都の先住人達である)。
また、酒の神様として有名な松尾大社があるが、この社を創建したのは秦忌寸都理なる人物である。ちなみに、松尾大社・上賀茂神社・下鴨神社を合わせて「秦氏三所明神」とも呼ぶ)。
さらに、渡月橋の上流にある葛野の大堰を建設したのは秦氏であり、平安京造営の中心になったのもこの一族である。秦氏は第15代・応神天皇の時代に、朝鮮半島から渡来してきたとされている。
そのとき、秦氏一族(127県の人夫・3万~4万人といわれています)を率いていた首長の名を「弓月君(弓月王)」(融通王)という。弓月とは、弓張月、すなわち三日月を意味するのであろうか。
スサノヲ(スサノオ)
2006年08月01日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十二)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十二)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国葛城郡の高天彦神社と葛城氏(3)
大和朝廷は国家統一の過程で、周辺の豪族を連携または平定し、領土を拡大していった。また、葛城族と葛城の地もそうした過程を踏んで大和朝廷に組み込まれていったと思われる。
葛城の背後に聳える二つの山からの伏流水で豊かな水に恵まれ、古代より文明の発達する条件に恵まれた所であったようだ。
また、この地は朝鮮半島からの進んだ文化を取り入れやすい要地でもあり、朝鮮半島から北九州を経て、瀬戸内海を通り上陸して水越峠を通ると、そこは葛城の地である。これは葛城の葛城族に半島文化をもたらした、あるいは葛城族が辿り着いたルートの一つであったと思われる。
葛城王朝を樹立したのは、葛城山下の平坦地(この地は鴨族が先住開拓していた土地であり、後に事代主神を祀る鴨族を政治的結合か服属したようだ)であった。
葛城王朝の崩壊の後、この王朝の最後の王であった開化天皇の異母弟、彦太忍信命の子孫から武内宿禰が出たとされ、彼の功績によって葛城氏を再興する機会を与えられ、その子の葛城襲津彦が葛城氏の本宗として地位を築き上げたとされている。しかし、この葛城氏の本宗も数代にして亡び、それに代わって一族の蘇我氏が後に台頭するのである。
葛城氏の系譜では、高天彦(高御産巣日神・高皇産霊神)を祖神としている。したがってこの神を祀る所が、またこの部族の居住地でもあったと考えられる。
金剛山(古代に葛城山と呼ばれる)の中腹に、葛城の五大社の高天彦神社(延喜の制では名神大社。月次・相嘗・新嘗)がある。この神社は高天原旧蹟という伝説があり、葛城王朝発祥の地として鳥越憲三郎から注目された所でもある。この祭神が高天彦(高皇産霊神)だ。
ところで、高木神(高皇産霊神)から派遣されてきた八咫烏は、『日本書紀』では、神武天皇即位の後の論功行賞で、「頭八咫烏また賞に入る。その後裔は葛野(かつぬ)の主殿縣主部(とのもちあがたぬしべ)これなり」と出ている。
大和国葛城地方にいた鴨氏(葛城氏と同族)は、葛城から山城の賀茂岡田から乙訓・葛野、更には現在の上賀茂神社の辺りへと移住したという。この時、人々の移動と共に丹塗矢や神武天皇と玉依姫の伝承、高木神の信仰や文化などが山城の地にもたらされたのかもしれない。
実は、藤原氏の前身である中臣氏も高木神(高皇産霊神)の信仰を持っていた。葛城氏も前述のように高天彦(高皇産霊神)の信仰を持っていた。
あるいは葛城氏(4~5世紀、葛城氏の勢力は大臣の外戚・大臣として大変なものであった。『記・紀』では同じく武内宿禰を始祖とする紀・平群・巨勢・蘇我氏がいる。また、蘇我稲目は没落した葛城氏の女と結婚しており、もうけた二人の娘を欽明天皇に差し出している。王権の統一を回復した欽明天皇は、かつて大王たちに后妃を独占的に提供していた高貴なる葛城氏の血を欲していたようだ)の神であったからこそか、『記・紀』編纂を主導する藤原氏は「高皇産霊神」を天皇家の最高神の一つとしたのである。
それどころか、天孫降臨で高木神が果たす役割は、地上での藤原不比等そのものであった。もしかすると、高木神も藤原氏によって葛城氏からの吸収され取り込まれたのかも知れない。
藤原氏(中臣氏改め藤原氏となる)によって行われた『記・紀』の編纂、「古典神道」の確立は「宗教改革」と呼んでよいほどの大変革であった。
その目的は、天皇家と藤原氏に連なる神々を「天つ神」、豪族に連なる神々を「国つ神」に系譜づけることであった(『記・紀』の神統譜作りの目的は、天皇家と藤原氏のためである)。
天つ神の首領神がアマテラス(天照大神)であり、国つ神の首領神がスサノヲ命(スサノオ命・須佐之男命・素盞鳴神)とそれを継承したオオクニヌシ(大国主神)とした。
藤原氏はこの「宗教改革」の中で、標的にしたのが葛城氏の神であったと考えられる。つまり、藤原氏によって葛城氏の神は宗旨や神格が替えられ、一部の神は天皇家と藤原氏に連なる神々へ組み込まれていくのである。
京都北東部の両賀茂社も藤原氏によって宗旨が替えられた可能性がある(祭神は賀茂別雷命が上賀茂、その母・玉依姫と祖父・賀茂建角身命が下鴨となっており、つまり、藤原不比等が娘を後宮に入れ、その産んだ息子を天皇位につけた姿と同じなのである)。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月31日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十一)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十一)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国葛城郡の高天彦神社と葛城氏(2)
強大な勢力を誇った葛城氏の故地・葛城地方には、葛木山(金剛山と葛城山を合わせて「葛木山」と呼んだ)が聳え、その裾野には台地状の地形が広々と広がる。
葛木山の最高峰になる金剛山頂の真下には、高天(たかあま)という集落があり、この高天の台地は標高450メートルもあり、大和平野や吉野の山々が見渡せる。
また背後にそびえる二つの山からの伏流水に恵まれ、水田もかなり広がっていた。高天の台地は、『記・紀』神話の高天原だとする伝承が昔からある。
高天の集落の南の外れにある高天彦神社は、参道の両脇に直径2メートルもある杉の老木が立ち並び、いかにも神さびた雰囲気を漂わせている。
この高天彦神社は『延喜式』神名帳に記載された古社の一つで、とりわけ格式の高い名神大社に列せられている(南葛城地方にはこの他にも鴨都波神社・高鴨神社・葛木御歳神社・葛城一言主神社・葛木水分神社・葛木坐火雷神社の七社がある)。
祭神は高天彦神(高皇産霊尊)である。この近くには弥生時代から古墳時代にかけての大集落遺跡・鴨都波遺跡があり、唐古・鍵遺跡(田原本町)と並ぶ大和の代表的な弥生時代の集落遺跡とされてきた。
またこの地には葛城族に服属したという鴨族の祀る神社が点在する。御所市の西の外れには鴨都波神社(下鴨社)があり、この神社は『延喜式』神名帳の「鴨都味波八重事代主命神社」にあたるとされ、祭神は田の神とされる事代主神である。
後に鴨族は全国に散らばったとされ、「鴨」「加茂」「賀茂」などの地名は各地に伝わっている(山城の賀茂神社は八咫烏こと賀茂建角身命が移り住んだと『山城国風土記』は伝える)。
この他にも鴨族ゆかりの神社が二社あり、高鴨神社(上鴨社)と葛木御歳神社(中鴨社)で、あわせて「鴨三社」と呼ばれ、『延喜式』神名帳に記載される名神大社で由緒と格式のある古社である(南葛城地方は特別に格の高い名神大社が集中)。
鳥越憲三郎氏の『神々と天皇の間―大和朝廷成立前夜』(朝日新聞社)によると、弥生時代中期ごろ、御所市南部の金剛山麓の丘陵地に、畑作と狩猟を中心に高天彦神(高皇産霊尊)を祀る葛城族が住んでいたという。
やがてこの葛城族は、御所市北部の肥沃な平地にいた鴨族を服属させて水稲稲作を始め、「葛城王朝」を樹立、後に大和朝廷に成長していったとしている。
そして、発祥の地の高天の台地を遠い記憶ある祖先の神々がいた場所と考え、「高天原」と呼んだとしている(神武天皇が即位した橿原宮は畝傍山の麓でなく御所市柏原の地であるとも、本間の岡は掖上のホホ間丘とも)。
このように、南葛城地方に格式の高い神社が多くあることや大和朝廷前夜に関わる伝承が集中していることなどから「葛城氏の本拠地で、三輪王朝に先行する葛城王朝の発祥地」とした。
たしかに高天の台地や葛城古道は、欠史八代の宮居(葛城王朝の歴代大王の宮居)の伝承なども残されており、神話の里を彷彿とさせる雰囲気を漂わせている。
また、葛城山の東麓には、葛城一言神社がある。一言の願いならば何でもかなえられる神とされる一言神を祭神とする。『記・紀』には、雄略天皇と一言神の伝承を伝えているところから、葛城地方を本拠とする勢力が無視のできない強大な力を持つ存在であったことを窺わせる。
『記・紀』によると、5世紀葛城地方にいた強大な勢力といえば、葛城氏だ。この葛城氏は葛城襲津彦を始祖とし、葛城襲津彦は神功皇后のもとで活躍した伝説の武人・武内宿禰の子とされ、『日本書紀』に新羅を討つために派遣された人物として登場する。
この記事には「沙至比跪を派遣した」とする『百済記』の記事を併載し、葛城襲津彦と沙至比跪は同一人物であることが分かる。このあたりの『日本書紀』の記述は伝説的な要素が強いようだが、葛城襲津彦の実在性が高いようだ(葛城地方の御所市室の前方後円墳・宮山古墳〈全長246メートル〉は葛城襲津彦かその父の武内宿禰の墓ではないかとされ、こうした大王クラスの墳墓から葛城氏の勢力の大きさが分かる)。
葛城氏は大和朝廷の皇后(磐之媛・黒媛・韓媛など)の家と大臣となり、応神紀十四・十六年に加羅から弓月の民=秦氏に近い渡来民を連れてくる(加羅=伽耶連邦を構成する金官国の王族であったとも?)。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月30日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国葛城郡の高天彦神社と葛城氏(1)
大和国葛城地方の葛城氏(葛城族は崇神王朝=三輪王朝に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も、平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えたとされる。また葛城襲津彦=そつひこを祖とする葛城氏は大和朝廷の皇后の家と大臣となり、加羅=伽耶連邦を構成する金官国の王族であったとも? 応神紀十四・十六年に加羅から弓月の民=秦氏に近い渡来民を連れてくる)の故地は、奈良盆地南西部(現御所市周辺、葛城山と金剛山の山麓)である。
この山麓には『延喜式』神名帳が定める最高の社格を持つ神社が五社ある。葛城の五社とは、鴨都味波八重事代主命神社(積波八重事代主命)、葛城坐一言主神社(事代主命)、高天彦(たかまひこ)神社(高皇産霊神)、高鴨阿治須岐託彦根命神社(味スキ高彦根神)、葛城坐火雷神社(火雷大神)だ。
また「葛城」の地名については、諸説があるが「葛」は一般には蔓(つる)の「かずら」と考えられている。しかし「桂」の落葉種の高木とみる考えもある。すると山城国葛野郡に「桂」という地名があることとも関係してきそうだ。
また葛城地方の「高城」も「高木」とも考えられそうだ。そうしたことから、「葛城」とは「葛城の高宮」つまり「高城=高地の砦(高宮・宮城、国見の場・祭場)=高木」とも解釈できそうである(葛城山は葛城氏にとって御諸山であり聖地であったのある)。
すると「葛城の神」とは「高木の神」であり、「高木の神」といえば最高の皇祖神である「高御産巣日神・高皇産霊神」ということになるのだが?…。
古くから、金剛山(高天山、古くは金剛山と葛城山を合わせて葛木山と呼んだ)の山麓の「高天の台地」(付近一帯は高天の地名が数多く残りる)といい、神々のいます「高天原」とも呼ばれていた(葛城の地主神・高天彦=たかまひこは葛木山の神霊)。
この地(北窪・南窪)には、弥生時代中期には葛城氏の繋がる古族・葛城族は住んでいたという。水稲農耕を営み始めた葛城族は、葛城川流域の鴨族(修験道の祖とされる役小角も鴨族の出である)と連合して部族国家を形成したようだ。
一説には、崇神王朝(三輪王朝)の先行する王朝として葛城王朝が在ったとする説がある。こうした説によると、神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びたとされるが、しかし武内宿禰によって復興し、大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されたと考る。葛城の五社は葛城族の祖神を奉斎することから、『延喜式』神名帳が定める最高の社格を持つ古社なる。
この地の伝承では、天孫降臨の舞台は九州ではなくこの地・葛城だったともいわれれている。この「高天の台地」に勢力を持っていた葛城一族が、さらに奈良盆地へと下り勢力を広げていったことが、後に天孫降臨として伝えられたというものである。
また鳥越憲三郎氏などの葛城王朝説(『神々と天皇の間 - 大和朝廷成立の前夜』 )では、神武天皇と欠史八代とされる開化天皇までの各天皇(大王)を実在とし、欠史八代の天皇(大王)の事跡を初代神武天皇に集約したとしている。
さらに橿原の宮についても、現在の橿原神宮ではなく、御所市柏原にある神武天皇社という小さな神社が当てられている。すると、葛城王朝にとっての大王家の祖神とは、「高天彦(たかまひこ)」いわゆる「高御産巣日神・高皇産霊神」であったのか?…(※注1)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 葛木山(現在の金剛山と葛城山)は奈良盆地西に聳える神奈備山である。そこは高天という集落があり、『記・紀』神話の「高天原」だとする伝承がある(葛城地方には鴨氏・尾張氏がいた)。
もしかすると、磐余彦の東遷(神武東征)は高木神(高御産巣日神)の信仰をこの地に持ち込んだのであろうか?…。また高木神の信仰からか?、後ちに鴨氏は「高鴨」、尾張氏は「高尾張」と呼ばれる。
「神武東征説話」による神武天皇の事蹟とされる出来事や欠史八代の婚姻関係を考えると、葛城地方、磯城地方、さらには北部・物部氏との政治連合あるいは武力制圧が急速に進んだものと見ることができる。このとき、敗退した尾張氏と物部氏の一部が東海の尾張地方に向かい、その地に天火明命を祖神とする勢力圏を作り上げたとも考えられるのだが?…(元々、天火明命はもっと素朴な地域神・農耕神・太陽神であったのか?…)。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月29日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(九)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(九)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、対馬国下県郡の高御魂神社と対馬国上県郡の神御魂神社
『日本書紀』顕宗天皇三年四月五日条の「日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく・・・、対馬下県直、祠に侍ふ」の記事は対馬の高御魂神社とも関連する。
この豆酘(つつ)の里に鎮座する高御魂神社は対馬国下県郡式内社筆頭の名神大社であり、当地の弥生遺跡からは朝鮮半島産の石器・土器が出土し、また古墳時代後期には対馬までも有数の古墳があり、下県直の本拠地と見られてる。
なお当地には天神多久頭(たくずたま)神社と、国史所見の雷神に擬せられる雷神社が鎮座し、対馬固有の信仰として有名な天道祭祀の中心地で、亀占の神事や、赤米の穀霊を祀る行事など、貴重な習俗が伝承されている。
また、対馬の上県の天道祭祀の中心であった佐護の里には、天神多久頭神社と神御魂神社(俗称は女房神)があり、この女房神のご神体は、胸に日輪を抱いた女神像である。
女房神というのは神妻のことで、この姿からは、日光に感じて妊ったという処女の神話が窺え、日神信仰を見ることが出来る(古代、稲が日に感光し米が生じると信じられ、高御産巣日神は稲に日をむすぶ神として農耕生産の神であった)。
ムスビは、産霊・産日と表されるように、神霊を産(む)す働きが秘められていて、高皇霊・神皇産霊(高御産巣日・神産巣日)の二神は、『記・紀』神話における至高の創造神とされている。
この二神は宮中祭祀では高御産巣日神・神御産巣日神とある。また出雲の神魂命(神魂神社)も本来こうした神であり、海人(海を生活の基盤とする倭人)が対馬海流でもたらされたのかもしれない。
『古事記』の冒頭に、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天御中主神、次に高御産巣日神、神産巣日神・・・」とあり、また『日本書紀』の神代七代には「高皇産霊尊、神皇産霊尊」とあり、また天孫降臨の段にも見える。
その後、前述した顕宗天皇三年の条に、古代史の謎を秘めた大変に重要な記述が見える。それは阿閉臣事代が、朝廷により任那に使し、対馬を通過した際、日神(阿麻テ留神社の天日神=天照魂、高御魂の孫裔)が人に憑いて託宣をしたので、高皇産霊神に大和国の磐余の田を献じて、その祠に対馬下県直が侍えさせたとしている。
これは、対馬に祀られていた高御魂が中央に遷祀され、その祀官として対馬の古族が出仕したとも読めるのである。
従来、「天(あま)」は天上や海上を表す言葉とされてきたが、日本列島と朝鮮半島の海峡の島々のことではとする説もある。
皇室神話の天皇が日神の神裔とする系譜は、この対馬の日神の系譜に近く、もしかすると、朝鮮半島南岸と九州北岸の海を生活拠点としていた海人(倭人・倭族、日本海と瀬戸内海沿いに拡がっていくルート)が、中国・朝鮮半島の信仰や文化を中継し宮廷祭祀などへ伝えたのかもしれない(海人には大きく分けてもう一派がある。ポリネシア、台湾、琉球列島伝いに南九州に至り、さらに南四国、紀伊半島を経て、房総半島へと伸びる太平洋岸・黒潮ルート)。
特に、対馬と壱岐の『延喜式』神名帳に記載されたいわゆる式内社の数は、対馬には29座(うち名神大6座)、壱岐には24座(うち名神大7座)もある。
しかも、『記・紀』の冒頭に登場する造化三神の高御産巣日神と神産巣日神、天照神である天照魂(天日神)、三貴神の一柱・月読命、和多都美神社の豊玉毘賣、和多都美御子神社の鵜葺草葺不合命、住吉神社の住吉三神など、『記・紀』神話に登場する神々を祀る神社が多く存在するのだ。
もしかすると、この海人が中継し継承してきた神話や信仰が宮廷祭祀に取り込まれてゆき、後に天皇制律令国家を支える『記・紀』神話・神祇神道の神話の元となったものとも考えられるのである。
では、誰が『記・紀』神話にこうした神々を持ち込んだのであろうか。壱岐と対馬は、実は亀卜を職とする人々(卜部)の島であった。この卜部の祭祀を取り込んだのが「中臣氏」(のちの藤原氏)であったのである(6世紀後半の物部氏没落のころ、蘇我氏政権の中で、それまで物部氏所管であった大王家祭祀の実権を手中に収める)。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月27日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(七)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(七)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、京都盆地南西部の古社・高御産日神を祀る羽束師神社(2)
羽束師神社で注目されるのは、「羽束師に坐す高御産日神社」とされて高御産日神を社名とすることである。高御産日神とは『古事記』(上巻)に記すいわゆる造化三神の一神である高御産巣日神であり、『日本書紀』では高皇産霊尊と表記する。
『古事記』では別に「高木神」とも称されているが、『古事記』『日本書紀』の神話では高天原における主宰神として強く意識されていた神である。たとえば、『古事記』にあっては、葦原中国の平定や天孫降臨を命ずる神はアマテラス(天照大御神)と高御産巣日神(高木神)であり、『日本書紀』(本文および第四・第六の一書)では高皇産霊尊とされているのだ。
皇祖神としての神格化をみた高御産巣日神にゆかりを持つ社は、『延喜式』においても限られており、他には大和国添上郡の宇奈太理坐高御魂神社、大和国十市郡の目原坐高御魂神社、対馬国下県郡の高御魂神社などといったように少ない。
なぜ乙訓の地域に高御産日神が祭祀されるようになったのか。その間の事情は定かではないが、高御産日神は少なくとも大宝元年四月の勅が出されるまでは、「波都賀志神」として祭祀されており、大和王権と羽束師の地域が早くから深い関わりを持っていたことを示唆する。
『新抄格勅符抄』の大同元年の「牒」には、山城国より神戸(4戸)をあてられている。『延喜式』にみえる宮中36座のなかには御巫(みかんなぎ)の祀る神八座があり、その宮中八神殿の一神がやはり高御産日神である。
『延喜式』巻三十九の内膳司には園神祭十四座があり、そのなかに長岡園三座が見られているのも見逃せない。宮廷との繋がりを持った羽束志(波都賀志)の神が高御産日神を主神とするのには、このような背景があったようだ。
そして『三代実録』の貞観元年(859年)九月八日の条に見出されるように、「風雨を祈る為に」遣使奉幣される風雨の神としても崇められていた。今も残る羽束師の社叢に、僅かだがいにしえの古社の面影を忍ばせるのである。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)の御祭神は高皇産霊神と神皇産霊神で、雄略天皇二十一年の御鎮座と『羽束師社旧記』は伝えている。
桂川と諸河川の合流するこの地は古くから農耕が行われ、水上交通の要地と相まって羽束郷と称され開けてきた。平安時代には祈雨の神と崇められ、潤雨・風鎮の祭りが行われた。
『延喜式』にあっては大社に列せられ、月次祭・新嘗祭の幣に預かり、中世・近世になっても羽束石祭の賑わいは近郷唯一であったそうだ。二基の神輿渡御は広い地域にわたったと『大乗院寺社雑事記』『都鄙祭事記』は語り伝えている。
豊かな社叢は「羽束師の杜」の名で古来より親しまれ、祭礼行事は羽束師祭(5月中旬、羽束師の舞・こども神輿)、 例祭(10月中旬、舞楽が奉納される。) が行われる。
(※注2) 祭神は高皇産霊神と神皇産霊神は、『記・紀』神話の筆頭に出てくる独り神で、化成霊能の三神のうちの二神である。
この神は、のちの氏族の始祖神になっているが、このような大始祖神を治水の神でもなく穀物の神でもない神として、羽束師のような水害の多い地(桂川の洪水が多発した地)に祀ったところに、羽束師郷の特色がある。
羽束師坐高御産日神社を中心にする羽束師遺跡では、弥生後期から古墳時代の遺構が発見されているから、古代桂川の自然堤防を利用して水と暮らした歴史のある土地であったことが分かる。
(※注3)羽束師神社(伏見区羽束師志水町)は、桂川西方の平地に鎮座する(以前に下鴨神社の神職の方から聞いた、京都で最も古い羽束師神社と大歳神社が気になってた)。
付近は『和名抄』記載の羽束(はつかし)郷の地で、天平勝宝元年(749年)十一月三日付の正倉院文書の奴婢帳に「山背国羽束里」とみえる。
社叢は古くから「羽束師の森」として歌枕にあげられ、延喜十三(913年)の亭子院歌合には「はつかしの森の僅かに見しものをなど夏草の繁き思いぞ」と詠われている。現在も境内には樟の大木などが繁り、昔を偲ばせるが、社殿は衰微して盛時の面影はない。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月26日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(六)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(六)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、京都盆地南西部の古社・高御産日神を祀る羽束師神社(1)
京都盆地南西部の式内社の祭神で 、古文献にいち早く登場する確実な例は、『続日本紀』の大宝元年(701年)四月三日の条にみえる波都賀志神(はつかしのかみ)であり、ついで大宝二年七月八日の条に記す乙訓郡の火雷神である。
波都賀志神(はつかしのかみ)については、大宝元年四月三日の勅に「山背国葛野郡月読神、樺井神、木嶋神、波都賀志神らの神稲は、今より以降、中臣氏に給へ」とあるのがそれであり、乙訓郡の火雷神(石作氏・六人部氏らの奉斎した神)については、大宝二年七月八日の条に「山背国の乙訓郡に在る火雷神、旱(ひでり)ごとに雨を祈るに、頻(しきり)に微験あり、冝く大幣及び月次の幣例に入るべし」と記述されているのがそれである。
まず波都賀志神(羽束師神、はつかしのかみ)の例からながめてみよう。大宝元年四月三日の勅にいうところの葛野郡月読神とは、『延喜式』にいう「葛野に坐す月読神社」であり(葛野郡)、樺井神とは『延喜式』の「樺井月読神社」であり(綴喜郡)、木嶋とはやはり『延喜式』にみえる「木嶋に坐す天照御魂神社」である(葛野郡)。
乙訓に関係があるのは波都賀志神であり、『延喜式』が乙訓郡内の大社として記す「羽束師に坐す高御産日神社」がそれである。
波都賀志神の「波都賀志」は、天平勝宝元年(749年)十一月三日付の『東大寺奴婢帳』(正倉院文書)に「羽束里」とみえるように「羽束」と書き(『新抄格勅符抄』にも「羽束神」とみえる)、また『三代実録』の貞観元年(859年)九月八日の条に「羽束志神」とあるように「羽束志」とも記した。『延喜式』では「羽束師に坐す高御産日神社」のほか「羽束志薗」(内繕司)がみえる。
長元二年(1029年)二月二十二日付の大法師深幸解案(『愚味記』嘉応二年裏文書)には「乙訓郡羽津加志下村」とあって、「羽津加志」となっている。『和名類聚抄』にいわれる「羽束郷」の神である。
羽束師神社(羽束師に坐す高御産日神社、京都市伏見区羽束師志水町に鎮座)の前身が、『続日本紀』の大宝元年四月三日の勅にみえる「波都賀志神」にほかならない。
この勅によって、「波都賀志神」(羽束師坐高御産日神社)は、大宝元年四月以降に奉斎のされていた神であったことが明らかとなる。
「羽束石社神主」であった古河為猛が文政十年(1827年)八月に著した『羽束師社旧記』によれば雄略天皇二十一年四月の鎮座とし、天智天皇四年(665年)、長岡遷都のあった延暦三年にそれぞれ再建されたと伝えている。
祭神は「高皇産霊神(たかみむすび)」を主神とし、相殿の神として「神皇産霊神(かみむすび)」を祀る。『羽束師社旧記』では摂社11社を大同三年(808年)斎部広成(忌部広成、いんべひろなり)の奏聞によって勧請したという。(※注1)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 『延喜式』に記載されている乙訓郡の神々は19座(大社5座、小社14座)となっている。名神大社は羽束師神社(はつかし、羽束師に坐す高御産日神社、高御産日神)、火雷神社(ほのいかづち、乙訓に坐す火雷神社、火雷神)、大歳神社(おおとし、大歳大神)、小倉神社(おぐら、武甕槌神)、酒解神社(さかとけ、玉手より祭り来たる酒解神社、橘氏の先祖神・酒解神、大山祇神)の5座であり、いずれもが神祇官から祈年祭のほかに月次・新嘗祭の幣帛をも供進された。
そして與杼神社(よど、高皇産霊神)、大井神社(おおい、大綾津日神・大直日神・神直日神)、石作神社(いしつくり、石作神)、走田神社(はしりだ、天児屋根命)、御谷神社(みたに、天児屋根命)、国中神社(くなか・くになか、素盞嗚神、祇園祭で駒形稚児供奉)、向神社(むかへ・むかふ、向日神)、茨田神社(まんた、猿田彦大神)、石井神社(いわい、磐裂神)、神川神社(かんかわ、底筒男命・中筒男命・上筒男命)、久何神社(こが、建角身命)、簀原神社(すはら、大己貴命)、入野神社(いりぬ、天児屋根命)、神足神社(かんたり・かうだに、天神立命)、の14座が小社とされており、祈年祭に神祇官から幣帛を受けた。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月25日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(五)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(五)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大歳神社と大年神と向日丘陵
西京区大原野灰方町に鎮座する大歳神社は、乙訓郡式内社の大社であり、月次・新嘗の祭儀にも奉弊された神社である(社伝には、「代々石棺や石才を造っていた古代豪族の石作連が祖神を祀った」とされ、「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神という」と記されています)。主神に大歳神(大年神)を祀り、相殿に石作神・豊玉姫命を祭祀し、養老ニ年ニ月の創建という。旧乙訓の古社で、『和名類聚抄』にいう石作郷内にあり、式内石作神社の石作神を併祀しているのも見逃せない。
大歳神社は栢森(かやのもり)あるいは栢森大明神と呼ばれたが、白日神の親神とされる大歳神を奉斎するこの古社の境内に向日社があり、また向日神社の境内に親神大年社が祀られているのも、向日神と大歳神(大年神)のえにしを物語っている(神社伝承学では、大歳神をニギハヤヒ命とみている)。
大歳神社は『延喜式』神名帳に記され、山城國鎮座社の内大社に列せられていた。この境内は柏の森(かやのもり)と称し社を柏の社ともいう。この神は農耕生産の神であり、方除祈雨にも霊験ありと知られ大原野地方の守護神である。石作神は代々石棺などを造っていた豪族の祖神であり、火明命の後裔とされている。
垂仁天皇の后、日葉昨姫命が亡くなった時、石棺を献上し石作大連公の姓を賜ったとされている(火明命の六世孫、建真利根(たけまりね)命の後なり。垂仁天皇の御世に、皇后日葉酢媛命の奉ために、石棺を作りて献りき。よりて姓を石作大連公と賜ふなり)。
石作連を祀った石作神社は『延喜式』神明帳に記され、貞観元年従五位下に昇格している。『大日本史』に石作神社今灰方村大歳神社内にありと記され、石作氏衰微後、大歳神社に合祀さられたものである。(※注1・2)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 京都盆地の西部において、古代氏族の存在を見ることができる。一般には古代氏族は、(1)その地域に根付いた氏族、(2)日本列島の他地域から移動してきた氏族、(3)朝鮮半島・中国大陸から移住してきた氏族の3つに分けて考えられ、京都盆地の西部は3タイプが併存していることが窺える。
(1)と(2)は区別しがたいが、京都盆地の西部に本来的に基盤を持つであろう氏族として石作氏があげられる。石作氏は、建真利根命を祖先とする神別氏族(『新撰姓氏録』)、石の加工に携わった技術系氏族と考えられ、和泉・尾張・美濃・近江・播磨などに分布していた。
この地域の農民が石作部として編成されたおり、それを統率して大和王権に奉仕する氏族がここに居住したのであろうか。あるいは他地域から移住してきた氏族かもしれないが、確定は出来ない。
大和王権を担う氏族として活躍したことでは土師氏も同様で、この氏族が統率する土師部は、土木技術や凶事・葬礼などを担当して大和王権に奉仕・従属した。なお、桓武天皇の母・高野新笠の母方が土師氏で、京都盆地の西部に居住したと推測されている。
おそらく京都盆地の西部地域の農民が王権の進出にともなって土師部に編纂され、それを統率する豪族の土師氏もここに居住することになったと思われる。この氏族も神別氏族を主張している(『新撰姓氏録』)。
この地の土師氏は後年、居住する地名から大枝氏を名のり、平安時代には同じ土師氏一族で菅原道真を生んで菅原氏や秋篠氏とともに、政界や学界に活躍した。
(※注2) 延喜五年(905年)から編纂に着手され延長五年(927年)に完成した『延喜式』(全五十巻)の巻九と巻十には、3132社(2861所)が記載されている。
そのうち山城国の神々は122座であり、乙訓郡の神々は19座(大社5座、小社14座)となっている。山城国内に関していえば、『延喜式』に載せるいわゆる式内社の神の座数は、久世郡に24座、愛宕郡の21座、葛野郡20座についで多く、綴喜郡の14座、宇治郡の10座、紀伊郡の8座、相楽郡の6座よりは、その数を上廻る。
式内社は『延喜式』編纂の時期までに、官社として神祇官ないしは国衙から奉幣された神社であって、少なくとも10世紀前半までには存在したことを物語る古社である。
乙訓郡の場合、名神大社は羽束師坐高御産日神社、乙訓坐火雷神社、大歳神社、小倉神社、酒解神社の5座であり、いずれもが神祇官から祈年祭のほかに月次・新嘗祭の幣帛をも供進された。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月24日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(四)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(四)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大年神と白日神と向日丘陵
『古事記』によると、祭神の大山咋は大年神(『古事記』の神統譜では、速須佐之男命が大山津見の女、名は神大市比売を娶りて生める子としている)と天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間に生まれた子で、竈の神である奥津日子神・奥津比売神の弟であり、稲荷の神である宇迦之御魂神の甥になり、葛野の松尾に坐すとある。
さらに『古事記』の「大国主神」の章の「大年の神の系譜」の条をみると、「大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」とあるように、その鎮座の由来から日吉大社との関係が深かったことがわかる。
鳴鏑は鏑矢のことで、その矢が松尾大明神であるという伝承が『本朝月令(ほんちょうげつれい)』に引用された『秦氏本系帳』には記されている。
この大歳神(大年神)に繋がる神々の系譜は、『古事記』が独自に伝えるものである。その大歳神(大年神)の系譜の冒頭に「大国御魂神」と並ぶ神々として「韓神」「曽富理神」「白日神」などが名を連ねていることは注目に値する(『古事記』に、「大年神、神活須毘神の女、伊怒比売を娶りて生める子は、大国御魂神、次に韓神、次に曽富理神、次に白日神、次に聖神」とある)。
韓神は『延喜式』では、皇室に坐す神三座(園神一座、韓神二座)として祀られている。宮廷祭祀において重視されている神であり、平安時代には十一月の新嘗祭前の丑の日、二月の丑の日には、園韓神祭が執行された。
貞観の『儀式』には「園神は南に在り、韓神は北に在り」とみえ、『江家次第』には「先に南に供し(園神)、次に北に供す(韓神)」とある。(※注1・2)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 大歳神(大年神)の系譜に、朝鮮半島からの渡来系の神である韓神や曽富理神の生成と並んで白日神が登場するのを、単なる偶然とは考えにくい。
『古事記伝』や『神祇拾遺』などが説くように、「白日神」が「向日神」であったとすれば、向日神もまた渡来系とゆかりを持つ神であったかもしれない。
『向日二所社御鎮座記』によれば「神須佐男命(かんすさのおのみこと)の児大歳神(大年神)、活須日神(いくすびのかみ)の女須治曜姫命を娶りて生める子神」が向日神であり、向津日山に鎮座したと伝えている。
『古事記』の系譜伝承と若干異なっているが、向日神がスサノヲ命(須佐之男命・素盞烏尊)の孫にあたり、大歳神(大年神)の子であるとすることにかわりはない。
『延喜式』の「神名帳頭註」に向神社について「素戔鳴には孫、大歳には子也、母は須治比女」記している。『神祇拾遺』が「白日神」を「向日神」とし、「向日神社系図、旧事本紀等に向日神と云ふ此也」と記し、「蓋(けだし)向日神とは大歳神の子にて鎮座す、此社の北に当て灰方と云ふ村に大歳神鎮座なれば尤(もっと)も不審もなき也」と述べているのは、向神社(向日神社)の縁起に即しての見解である。
(※注2) 曽富理神の実体は何であったのか。朝鮮半島の重要な史書に『三国史記』と『三国遺事』がある。そののなかの新羅の始祖・赫居世の降臨伝承に関する国名に「徐伐(徐那伐・徐羅伐)sophur」とあり、「神霊の光り来臨する所、具体的には聖林」を意味する。
ソホリは朝鮮の古語に由来し、ソホリの用例は『日本書紀』巻ニ(神代巻下)「天孫降臨」第六の一書にも記されている。すなわち「日向の高千穂の添山峯」の「添」がそれです。その本文には「添山、此をば曽褒里能耶麻」と明記している。この「添」(ソホリ)は神霊の来臨する聖地を表現している。
ソホリ・ソホルは後には王都・王京の地を意味するようになり、たとえば百済の王都・泗ビ(夫餘)は「所夫里」と称されたりするようになる。
『日本書紀』巻一(神代巻上)の「宝剣出現」第四の一書に素戔鳴尊が五十猛神を率いて「新羅国」に降った処を「曽尸茂梨」とし、これを元慶講書のおり(878~882年)に「今の蘇之保留(そしほる)の処か」と解釈されたのも(『釈日本紀』)、新羅の王都を意味しての「ソホリ」と関連する。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月23日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(三)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(三)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、乙訓の火雷神と向日神社
丹塗矢の伝承は、賀茂伝説や松尾伝説ばかりでなく、たとえば『古事記』の神武天皇の条に三輪(美輪)の大物主神と勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)の神婚譚や、丹塗矢が金矢とはなるが『出雲国風土記』の佐太大神の誕生譚などにみられる。
丹塗矢は神霊の宿る聖なる矢であり、雷神・雷光のシンボルとされる場合が多く、賀茂伝説の丹塗矢は『山城国風土記』の逸文「乙訓郡の社に坐せる火雷神なり」とされるのも、乙訓の火雷神が雷雨神として古くから崇められていたことを窺わせる。
また、『本朝月令』に引く『秦氏本系帳』にも、丹塗矢の伝承が記されており「乙訓郡の社に坐せる火雷神なり」とし、後半の部分では「戸上の矢は松尾大明神是なり」として、松尾大社と関連付けている。
この丹塗矢の伝承の火雷神を祀る社とは何か、気になるところである。松尾大社では鳴鏑、下鴨神社では丹塗矢は、山背国乙訓郡に在る火雷神としている。
乙訓の火雷神が賀茂社・松尾社と繋がりを持つ信仰の中で祭祀されてきたことは、延暦三年十一月二十日の長岡京遷都の際、賀茂上下社と松尾・乙訓の両神にたいして同時に神階昇叙があり、使が派遣されて修理がなされたことからも推察できる。
ところで、『延喜式』に記す「乙訓に坐す火雷神社」の鎮座地は、一体どこであったのか。その比定を巡って古来から論争があtった。向日神社(向日市向日町北山に鎮座)の社殿伝によれば、向神社(向日神社)は、もと上社と下社に分かれ、上社には向日神、下社には火雷神が祭祀されいたと伝えている。
承久三年(1221年)の承久の乱のころ下社が荒廃し、下社の神を上社に合祀したという。向日神社は向日神・火雷神・玉依姫命・神武天皇とされているが、「乙訓に坐す火雷神社」との所縁を持つ古社が向日神社であったとする伝えには、それなりに注目すべきことである。(※注1・2)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 向日神社(向神社)は、京都盆地の西に位置する向日丘陵の南部に位置するが、鳥居は旧山陽道(西国街道)に面して立ち、300メートルほどの石畳の参道を通って社殿に至る。
向日神社は『延喜式』神名帳の乙訓郡十九座のうちに「向(むかへ)神社」たり、『三代実録』貞観元年(859年)正月二十七日条に正六位上から従五位下に進められたことがみられる。
現在の祭神は向日神・火雷神・玉依姫命・神武天皇であるが、『古事記』上巻に須佐之男命の子・大歳(大年)神が「神活須毘神(かんいすびのかみ)の女、伊怒比売(いぬひめ)を娶りて生める子は、大国御魂神、次に韓神(からのかみ)、次に曽富理神(そほりのかみ)、次に白日神(しらひのかみ)、次に聖神(ひじりのかみ)」の一神(一柱)としてみえる「白日神(しらひのかみ)」を向日神の誤記とする説ありる(『神祇拾遺』『古事記伝』)。
度会延経の『神名帳考証』はその説を受けて向日神社(向神社)の祭神を「大歳子、母須沼比姫」とし、向日神社(向神社)の西方2.3キロメートルの灰方(はいがた、現京都市西京区)にある式内社・大歳神社を父神にあて、向日神を出雲系の神としている。
(※注2) 『向日社略記』によれば、古く向日神社(向神社)はは上下二社に分かれていて、上社が現向日神社で向日神を祀り、下社は火雷神を祭神として他所にあったとしている。
『山城国風土記』逸文には、賀茂別雷神の父・火雷神を乙訓の社に鎮座すると記すが、この乙訓の社は『延喜式』神名帳に「乙訓坐大(火)雷神社、名神大。月次新嘗」とある。
その鎮座地については古来論争がありましたが、明治の『特選神名牒』は『向日社略記の遷座説を支持し、向日神社の西南800メートルの長岡京市井ノ内南内畑に鎮座する角宮(すみのみや)神社に比定している。しかし鎌倉初期の承久の乱に神主・六人部(むとべ)氏義が天皇方について敗れたため、一族は丹波に隠棲し、建冶元年(1275年)曾孫の氏貫のときに旧里に戻ったが、すでに社殿が大破していたため、上社の神主・葛野義益の提案に従って向日神社に合祀したという。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月22日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(二)
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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(二)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社と賀茂神社の説話の類似と桂と葵
かつて、松尾大社の神幸祭(4月21日)は、「葵祭」と呼ばれていた。本殿をはじめ拝殿や楼門、各御旅所の本殿・神輿から供奉神職の冠・烏帽子に至るまで、葵と桂で飾るためである。しかも日吉・賀茂・松尾の三社の例大祭はいずれも4~5月のほぼ同時期に行なわれてきたのだ。
葵祭といえば、賀茂神社を思い出すが、おそらく、その始まりは賀茂神社から流入したのであろう。松尾大社も磐座信仰のころは、賀茂神社と同じく別雷神を祀っていたため、そうした縁から葵を付けることになったと思われる。
また松尾大社の桂は、神仙思想や摂社の月読神社と深く関係していそうだ。月読神社は顕宗天皇三年=487年、阿閉臣事代が任那に使したとき、月神のお告げを受け、天皇に奏上して山城国葛野郡の荒樔田の地に神領を賜り、社を創建し、壱岐県主の祖先・押見宿禰が神職として奉仕したという。
伴信友の『瀬見小河』には「四季物語賀茂祭のくだりに、かつらの枝は松尾の御やしろの御たくせんおはして、けふにさしそへたまひぬ、・・・さて桂を松尾神の託宣にかけていへるは、一傅(またのつたへ)なるべし、また此葵桂を日吉神祭にも用ふ、其は賀茂に因縁ありての事ときこえたり・・・」とある。
日吉大社では、例祭の「申の神事」で、西本宮に桂の奉幣がある。松尾大社(月読神社)の象徴である桂(桂は中国・神仙思想において月にあるという想像上の樹だ。壱岐から勧請されたとする京都で最も古い月読神社と関係していそうである。葛野=嵐山・松尾の地名には月と関係する所が多く存在する。桂川・渡月橋・桂離宮など)と賀茂神社の別雷神の象徴である葵が、賀茂・松尾・日吉の例祭を彩っているのである。
『山城国風土記』逸文の「可茂の社」の項によれば、玉依日売(玉依姫命)が石川(賀茂川)で川遊びをしているとき、丹塗矢が川上から流れてきたので、その矢を持ち帰って床の辺に挿しておくと孕んで男子を生んだという。
その男子は外祖父の賀茂建角身命(外祖母は丹波の神野の神・伊可古夜日女)に因んで賀茂別雷命と名づけられたが、あるとき、その丹塗矢、つまり男子の父は火雷命であることが判明した(丹塗矢は乙訓の社に坐す火雷神だとある)。
ところが、『秦氏本系帳』によれば、葛野川で「秦氏女子(阿礼乎止女=知麻留女)」が洗濯をしているとき流れてきたのが丹塗矢が「松尾大明神」で、生まれた子が「都駕布」であったとして、同様の話を伝えている(『古事記』では松尾の神を「この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」としている)。
『秦氏本系帳』によれば養老二年(718年)、秦忌寸都駕布が初めて祝(はふり)となり、以降秦氏が子孫世々奉仕したとある。
『新撰姓氏録』(嵯峨天皇の勅によって古代の諸氏・千百八十二氏の系譜を集成した一種の姓氏事典)によれば、賀茂氏は「山城国神別」、秦氏は「山城国蕃別」(「太秦公宿禰。秦始皇帝の三世の孫、孝武王の後なり」、あるいは山城国諸蕃には「秦忌寸。太秦公宿禰と同じ祖、秦の始皇帝の後なり」とある)とその出自は違っているが、両氏はきわめて密接な関係にあったことが想像できる。つまり、賀茂氏と秦氏は共通の丹塗矢伝説をもっていたわけだ。
「鴨県主家伝」によると「賀茂社の禰宜黒彦の弟の伊侶具・都理が秦の姓を賜り、それぞれ伏見稲荷・松尾大社を作った」とあり、逆に『秦氏本系帳』によると「鴨氏人を秦氏の聟(むこ)とし、秦氏、愛聟に鴨祭を譲り与う。故に今鴨氏禰宜として祭り奉るのはこの縁なり」としている。
両氏は姻戚関係を結んでいたのは確かなようである。なお松尾大社の最初の「祝」は、丹塗矢で処女懐胎をした阿礼乎止女=知麻留女の子の都駕布で、近世までその子孫が代々、神職を世襲してきた。全国の分社の数は約1300社である。
スサノヲ(スサノオ)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(二)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社と賀茂神社の説話の類似と桂と葵
かつて、松尾大社の神幸祭(4月21日)は、「葵祭」と呼ばれていた。本殿をはじめ拝殿や楼門、各御旅所の本殿・神輿から供奉神職の冠・烏帽子に至るまで、葵と桂で飾るためである。しかも日吉・賀茂・松尾の三社の例大祭はいずれも4~5月のほぼ同時期に行なわれてきたのだ。
葵祭といえば、賀茂神社を思い出すが、おそらく、その始まりは賀茂神社から流入したのであろう。松尾大社も磐座信仰のころは、賀茂神社と同じく別雷神を祀っていたため、そうした縁から葵を付けることになったと思われる。
また松尾大社の桂は、神仙思想や摂社の月読神社と深く関係していそうだ。月読神社は顕宗天皇三年=487年、阿閉臣事代が任那に使したとき、月神のお告げを受け、天皇に奏上して山城国葛野郡の荒樔田の地に神領を賜り、社を創建し、壱岐県主の祖先・押見宿禰が神職として奉仕したという。
伴信友の『瀬見小河』には「四季物語賀茂祭のくだりに、かつらの枝は松尾の御やしろの御たくせんおはして、けふにさしそへたまひぬ、・・・さて桂を松尾神の託宣にかけていへるは、一傅(またのつたへ)なるべし、また此葵桂を日吉神祭にも用ふ、其は賀茂に因縁ありての事ときこえたり・・・」とある。
日吉大社では、例祭の「申の神事」で、西本宮に桂の奉幣がある。松尾大社(月読神社)の象徴である桂(桂は中国・神仙思想において月にあるという想像上の樹だ。壱岐から勧請されたとする京都で最も古い月読神社と関係していそうである。葛野=嵐山・松尾の地名には月と関係する所が多く存在する。桂川・渡月橋・桂離宮など)と賀茂神社の別雷神の象徴である葵が、賀茂・松尾・日吉の例祭を彩っているのである。
『山城国風土記』逸文の「可茂の社」の項によれば、玉依日売(玉依姫命)が石川(賀茂川)で川遊びをしているとき、丹塗矢が川上から流れてきたので、その矢を持ち帰って床の辺に挿しておくと孕んで男子を生んだという。
その男子は外祖父の賀茂建角身命(外祖母は丹波の神野の神・伊可古夜日女)に因んで賀茂別雷命と名づけられたが、あるとき、その丹塗矢、つまり男子の父は火雷命であることが判明した(丹塗矢は乙訓の社に坐す火雷神だとある)。
ところが、『秦氏本系帳』によれば、葛野川で「秦氏女子(阿礼乎止女=知麻留女)」が洗濯をしているとき流れてきたのが丹塗矢が「松尾大明神」で、生まれた子が「都駕布」であったとして、同様の話を伝えている(『古事記』では松尾の神を「この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」としている)。
『秦氏本系帳』によれば養老二年(718年)、秦忌寸都駕布が初めて祝(はふり)となり、以降秦氏が子孫世々奉仕したとある。
『新撰姓氏録』(嵯峨天皇の勅によって古代の諸氏・千百八十二氏の系譜を集成した一種の姓氏事典)によれば、賀茂氏は「山城国神別」、秦氏は「山城国蕃別」(「太秦公宿禰。秦始皇帝の三世の孫、孝武王の後なり」、あるいは山城国諸蕃には「秦忌寸。太秦公宿禰と同じ祖、秦の始皇帝の後なり」とある)とその出自は違っているが、両氏はきわめて密接な関係にあったことが想像できる。つまり、賀茂氏と秦氏は共通の丹塗矢伝説をもっていたわけだ。
「鴨県主家伝」によると「賀茂社の禰宜黒彦の弟の伊侶具・都理が秦の姓を賜り、それぞれ伏見稲荷・松尾大社を作った」とあり、逆に『秦氏本系帳』によると「鴨氏人を秦氏の聟(むこ)とし、秦氏、愛聟に鴨祭を譲り与う。故に今鴨氏禰宜として祭り奉るのはこの縁なり」としている。
両氏は姻戚関係を結んでいたのは確かなようである。なお松尾大社の最初の「祝」は、丹塗矢で処女懐胎をした阿礼乎止女=知麻留女の子の都駕布で、近世までその子孫が代々、神職を世襲してきた。全国の分社の数は約1300社である。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月21日
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(一)
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◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(一)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、氏神・松尾大社の創建
山城国葛野郡の松尾大社(京都市右京区嵐山宮前)は、京都嵐山に近い松尾山の麓に鎮座する旧官幣大社で、京都でも古い神社の一つである。祭神は、大山咋命(おおやまくい)、市杵嶋姫命(いちきしま、中津嶋姫命) を祀る。
社伝によれば、文武天皇大宝元年(701年)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命により、古代より葛野一帯で信仰されていた松尾山大杉谷の磐座の神霊を、渡来系氏族・秦氏一族の総氏神として勧請して社殿を建て、同族の知満留女(ちまるめ)を斎女(いつきめ)として奉仕させたとある。
また天智天皇七年(668年)、筑紫の宗像から嵐山に宗像三女神の市杵嶋姫(海上交通に関係の深い神、アマテラスとスサノヲ命との誓約で生まる)を勧請したとの伝えもある(市杵嶋姫=別名:中津島姫命を勧請した時期に、天智天皇は日吉大社に大和の三輪大神を勧請している。大津京遷都、即位の時に強力な地主神に加え、さらに強力な神々を加えているのだ)。
秦忌寸都理は「饒速日命之後也」と秦氏のなかで唯一神別としてみえる。松尾大社は、渡来系氏族・秦氏の氏神として篤く信仰されてきたのである。
平安京遷都後は、皇城鎮護の社として「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称され、『延喜式』では名神大社に列せられている(貞親元年、正一位に叙せられ後勲一等となる)。また二十二社のうち伊勢、石清水、賀茂と共に上七社の一に数えられた。
寛弘元年一条天皇の行幸をはじめ、以後縷々天皇の行幸があった。中世以降は酒の神としても崇敬され、境内に湧き出る霊泉「亀の井」の水は、醸造の際に加えると酒が腐らないといわれ、全国の醸造業者の篤い信仰を受けている。
宝物館に安置された3躯の神像(老年男神=大山咋神、壮年男神=月読尊?、女神=市杵嶋姫命)は、かつて丹朱が塗られて赤々と輝いていたそうだ。平安初期の一木造りの等身大坐像で、日本では最も古い神像とされ、強い畏怖の念を抱かせる。(※注1・2)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 『古事記』によると、祭神の大山咋命(おおやまくい)は、大歳(大年)神(スサノヲ命の子)が天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)を妻として生まれた御子神としている。この大山咋命については「奥津日子神。次に奥津比売命、亦の名は大戸比売神。此は諸人の以ち拝く竈神ぞ。次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と伝えている。
この記述から、大山咋神は、穀物の神である大歳(大年)神の御子神であり、別名を山末之大主神であること、近江のまた日枝の山(比叡山、八王子山)と松尾山に鎮座して、鳴鏑(山神=雷神=天神=水神=龍神)を持つとある。
(※注2) 秦氏は、秦の始皇帝の子孫とされ、そのために中国系の渡来人といわれたこともあったが、実際には、朝鮮半島から先進技術をもって渡来した集団である。『日本書紀』の応神天皇十四年条には百済から「帰化」したとあり、また、新羅系の渡来人とする見方もある。
農耕技術 ・ 土木技術 ・ 養蚕や機織りの技術・酒造の技術などともに渡来した秦氏は、5世紀ごろには、京都盆地の西部、現在の京都市右京区や西京区を中心とする地域に定住したと思われる。彼らは、「葛野大堰(かどのおおい)」 という堰を桂川に築いて、嵯峨野一帯に水利を施し、水田の開墾を行なった。
雄略天皇の時代には、秦酒公(はたのさけぎみ)という人がいて、大和朝廷に絹糸を献上したと伝えられる。また、聖徳太子のころには、秦河勝(はたのかわかつ)が、秦一族の首長であった。弥勒菩薩で有名な広隆寺を建立したのも秦河勝である。
スサノヲ(スサノオ)
◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(一)
◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、氏神・松尾大社の創建
山城国葛野郡の松尾大社(京都市右京区嵐山宮前)は、京都嵐山に近い松尾山の麓に鎮座する旧官幣大社で、京都でも古い神社の一つである。祭神は、大山咋命(おおやまくい)、市杵嶋姫命(いちきしま、中津嶋姫命) を祀る。
社伝によれば、文武天皇大宝元年(701年)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命により、古代より葛野一帯で信仰されていた松尾山大杉谷の磐座の神霊を、渡来系氏族・秦氏一族の総氏神として勧請して社殿を建て、同族の知満留女(ちまるめ)を斎女(いつきめ)として奉仕させたとある。
また天智天皇七年(668年)、筑紫の宗像から嵐山に宗像三女神の市杵嶋姫(海上交通に関係の深い神、アマテラスとスサノヲ命との誓約で生まる)を勧請したとの伝えもある(市杵嶋姫=別名:中津島姫命を勧請した時期に、天智天皇は日吉大社に大和の三輪大神を勧請している。大津京遷都、即位の時に強力な地主神に加え、さらに強力な神々を加えているのだ)。
秦忌寸都理は「饒速日命之後也」と秦氏のなかで唯一神別としてみえる。松尾大社は、渡来系氏族・秦氏の氏神として篤く信仰されてきたのである。
平安京遷都後は、皇城鎮護の社として「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称され、『延喜式』では名神大社に列せられている(貞親元年、正一位に叙せられ後勲一等となる)。また二十二社のうち伊勢、石清水、賀茂と共に上七社の一に数えられた。
寛弘元年一条天皇の行幸をはじめ、以後縷々天皇の行幸があった。中世以降は酒の神としても崇敬され、境内に湧き出る霊泉「亀の井」の水は、醸造の際に加えると酒が腐らないといわれ、全国の醸造業者の篤い信仰を受けている。
宝物館に安置された3躯の神像(老年男神=大山咋神、壮年男神=月読尊?、女神=市杵嶋姫命)は、かつて丹朱が塗られて赤々と輝いていたそうだ。平安初期の一木造りの等身大坐像で、日本では最も古い神像とされ、強い畏怖の念を抱かせる。(※注1・2)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 『古事記』によると、祭神の大山咋命(おおやまくい)は、大歳(大年)神(スサノヲ命の子)が天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)を妻として生まれた御子神としている。この大山咋命については「奥津日子神。次に奥津比売命、亦の名は大戸比売神。此は諸人の以ち拝く竈神ぞ。次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と伝えている。
この記述から、大山咋神は、穀物の神である大歳(大年)神の御子神であり、別名を山末之大主神であること、近江のまた日枝の山(比叡山、八王子山)と松尾山に鎮座して、鳴鏑(山神=雷神=天神=水神=龍神)を持つとある。
(※注2) 秦氏は、秦の始皇帝の子孫とされ、そのために中国系の渡来人といわれたこともあったが、実際には、朝鮮半島から先進技術をもって渡来した集団である。『日本書紀』の応神天皇十四年条には百済から「帰化」したとあり、また、新羅系の渡来人とする見方もある。
農耕技術 ・ 土木技術 ・ 養蚕や機織りの技術・酒造の技術などともに渡来した秦氏は、5世紀ごろには、京都盆地の西部、現在の京都市右京区や西京区を中心とする地域に定住したと思われる。彼らは、「葛野大堰(かどのおおい)」 という堰を桂川に築いて、嵯峨野一帯に水利を施し、水田の開墾を行なった。
雄略天皇の時代には、秦酒公(はたのさけぎみ)という人がいて、大和朝廷に絹糸を献上したと伝えられる。また、聖徳太子のころには、秦河勝(はたのかわかつ)が、秦一族の首長であった。弥勒菩薩で有名な広隆寺を建立したのも秦河勝である。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月21日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十一)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十一)
◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノオ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(4)
祇園社(祇園御霊会)の「祇園の神」(※注1)は「牛頭天王」(ごずてんのう)(※注2)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた(※注3)。
それはスサノヲ命と牛頭天王は同体(※注4)だということからだ(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難でる。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。
妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのだ。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 古来より疫病除災の神として信仰を集めた「祇園の神」は、八坂氏(八坂造一族)の祀ったスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)、道教系の牛頭天王(ごずてんのう)とその妃神頗梨采女(はりさいにょ=竜王の第三女)と子供たちである八王子であった。
しかし、江戸時代後期の平田神道(国学)や明治維新の「神仏判然令」によって、『記・紀』神話に基づいて編成し直され、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)とクシナダヒメ命(櫛稲田姫命)、とヤハシラノミコガミ(八柱神子神)ということに、無理やりに一本化される。
庶民からは、牛頭天王は、武塔天神ともいわれ中国の辟邪神天刑星の属性を持ち、頗梨采女は歳徳神として、八王子は大将軍・歳破神・豹尾神などのいわゆる遊行性の「金神七殺」系の神(「恐ろしい危険な神」であると同時に、「悪方向・災難からわれわれを守ってくれる神」)として、深く信仰されていく。
(※注2) 牛頭天王(天竺の牛の頭に似た「牛頭山にいたと伝えられ、そこにあった栴檀が熱病に効くところから、疫病などを防除すると信じられた)は別名「武塔天王」(武装して手に塔を捧げ持つ毘沙門天と同体異名とされた)とされるが、牛頭天王=武塔天王は、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)であると見なす所伝が古くからあった。
(※注3) 明治時代の初めの「神仏分離令」(神仏判然令)により改名するまで、八坂神社は祇園社と称して、「牛頭天王(ごずてんのう)」が祀られていた。
牛頭天王とは、もともとインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神で、日本では、疫病神(えきびょうしん)として考えられるようになった。
荒ぶる神性が、疫気を祓う威力を発すると古くから信仰上でとらえられてきのであろう。スサノヲ命は、一名を「糺(ただす)の神」ともいう。人々を悪疫から守り秩序ある状態に導く善神と意識されたからだ。
(※注4) スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)はその神威(霊威)の強大さからなのか(古代の人は、『記・紀』神話の荒れすさぶる神・スサノヲ命が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話を通して、スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう)、牛頭天王(疫神=疫病払いの神)と習合(同体化)する。
同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。スサノオ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)このように疫神(疫病払いの神)・農耕神・雷神・水神として崇拝されていくのだ。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月20日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十)
◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(3)
そのことは、『伊呂波字類抄』に、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう」と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた」という説話が記されていて、これに「われはハヤスサノヲの神(速須佐雄能神)なり」と云ったとあることによる。
『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともあり、古くより、牛頭天王(※注1)と武塔神(※注2)が、スサノヲ命(素戔嗚尊)(※注3)と習合されていたことがわかる。昔は、疫病は死に直結する恐ろしい災厄であった。だから、疫病を鎮める力を持つ神に対する信仰は、大変に篤いものがあった。そうした神様が京都八坂神社の牛頭天王(ごずてんのう)であり、武塔(むとう)神であり、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)であったのだ。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがみられる。
天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするのだが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのだろうか。そうしたことからか、牛・馬は神社と深い因縁があるようになる(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残だ。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納されたそうである)。古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとしたのである。
(※注2) 『備後国風土記』は次のように語っている。「昔、北の海にいた武塔神(スサノヲ)が、南の神の娘に求婚に来た折り、日が暮れてしまった。丁度そこに住んでいた、蘇民将来、巨旦蘇民の兄弟に宿をこうた。弟の巨旦蘇民は、たくさんの家や倉などを所有している豊かな生活にもかかわらず、宿を貸さなかった。兄の蘇民将来は、子沢山で食べる物もない貧さなのに、快く武塔神を泊めた。その後、武塔神は再び蘇民将来を訪れ、『茅の輪を腰の上につけなさい』といった。その夜、武塔神は、この茅の輪を身に付けていた蘇民将来の子孫以外を悉く殺してしまったのである。そして次のように言う。『後の世に病気などが流行った時、蘇民将来の子孫といって、茅の輪を腰に付ければこの害を逃れることができる』と…。この神話伝承に基づき、茅の輪神事や蘇民将来に関する行事が行われている。
(※注3) かなり早くから牛頭天王=武塔神とスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)とを同一視する習合思想が流布していたように思われる。古代の人は、『記・紀』神話(荒れすさぶる神が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話)を通して、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月19日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十九)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十九)
◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(2)
平安京の成立とともに人口が急増、それとともに疫病(悪疫)が度々流行る(むかしは、疫病の流行は大災害であった)。京の人々は恐怖し(※注1)、それを何とか防ぎ除くために、「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」(※注2)が頻繁に行われた。
京の郊外にあった八坂の地でも、貞観十一年(八六九年)、「御霊会(ごりょうえ)」が行われ、これが祇園祭(祗園御霊会)(※注3)の始まりとされている。さらに疫病(悪疫)を祓う威力(霊威)の強い神を求めようとした(※注4)。
貞観十八年(八七六年)、播磨の広峯社(現姫路市内)から疫神=疫病払いの神として牛頭天王(すでに播磨の広峯社の時点で、牛頭天王と素戔嗚尊は同体化・習合されていたようだ)が勧請された。疫病払う神・牛頭天王(※注4)は、日本人にとっては素戔嗚尊であったのだ。また、スサノオ命(素戔嗚尊)は武塔天神ともされた。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 古代の人は、疫病を何ゆえに生ずると考えたのであろうか。古代の人は漠然とではあるが「疫神」の仕業と考えていたようだ。また一方では、政争などにより非業の最期をとげた者の霊が、怨みを晴らすため(怨霊)、この世に疫病などの災いをもたらすと考えたのである。このため、古くから「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」が行われていた。
(※注2) 平安時代初期(九、十世紀頃)、京の都には幾度も疫病が流行した。医学の未発達な当時の人々は、それを疫神や祟り神の祟りだと考えのである。そこで、都のはずれで疫神にお経をあげたり、楽を演奏したりして慰め、町の外へ祓う儀式、「御霊会(ごりょうえ)」を行った。
その頃の祇園は京の都の町外れにあたり、この「御霊会」がよく行われた。やがて祇園には、疫神を祓う威力があるといわれる、牛頭天王(ごずてんのう)が祀られた。これが祇園社、現在の八坂神社になる。
(※注3) 貞観十一年に疫病が流行した際、卜部日良麻呂が、数年前の神仙苑の「御霊会」にヒントを得たのか、京の都の東方向の郊外にあたる八坂付近の人々を率いて、疫病をもたらす怨霊を神輿に封じて神仙苑へ送り込むような祭りを行う。
『祇園社本録縁録』には「貞観十一年(八六九年)、天下大疫の時、宝祚隆永・人民安全・疫病消除・鎮護のため、卜部日良麻呂(うらべひらまろ)、勅を奉じて、六月七日、六十六本の矛(長さ二丈ばかり)を建つ。同十四日、洛中の男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神仙苑に送り、以て祭れり。これ祇園御霊会と号す。爾来、毎年六月七日と十四日、恒例と為す」とある。
(※注4) 牛頭天王とは、もともとインドの祇園精舎の守護神で、中国で道教の神々と習合した後、日本では、疫病神(えきびょうしん)として考えられるようになった。また、祇園祭(祗園御霊会)は、祇園社の祭神であった「牛頭天王」を指して、天王祭とも呼ばれている。
祇園社の社名の改称とともに、祭神も変更したが、祭りの名称は、そのまま残り、現在に受け継がれている。荒ぶる神性が、疫気を祓う威力を発すると古くから信仰上で捉えられてきたからだ。また、スサノヲ命(素戔嗚尊)は、一名を「糺(ただす)の神」ともいう。人々を悪疫から守り秩序ある状態に導く善神と意識されたからだ。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月18日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十八)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十八)
◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(1)
祇園祭(祗園御霊会)が始まったのは、平安京が定められて、都市化が進んだ貞観十一年(八六九年)だ。しかし、「祇園神」が鎮祭されたのは、それよりさらに古く、奈良時代以前に遡る。記録の上では詳らかでないが、斉明天皇二年(六五六)高句麗の使、伊利之使主(いりしおみ)が来朝したときと伝えられている。
伊利之は『新撰姓氏録』に八坂造の祖に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称したことによる。すなわち、高句麗より渡来した人々が住みついて、スサノヲ命(素戔嗚尊)を祀ったとされている。また八坂氏は古くから八坂の地で、農耕神として「天神」(雷神)も祀っていた。
平安京の成立とともに人口が急増、それとともに疫病(悪疫)が度々流行した(むかしは、疫病の流行は大災害でした)。京の人々は恐怖し、それを何とか防ぎ除くために、「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭(えきしんさい)」「御霊会(ごりょうえ)」が頻繁に行われた。
都の郊外にあった八坂の地でも、貞観十一年(八六九年)、「御霊会(ごりょうえ)」が行われ、これが祇園祭(祗園御霊会)の始まりとされている。さらに疫病(悪疫)を祓う威力(霊威)の強い神を求めようとした。
貞観十八年(八七六年)、播磨の広峯社(現姫路市内)から疫神=疫病払いの神として牛頭天王(すでに播磨の広峯社の時点で、牛頭天王と素戔嗚尊は同体化・習合されていたようだ)が勧請された。疫病払う神・牛頭天王は、日本人にとっては素戔嗚尊であったのだ。また、スサノヲ命(素戔嗚尊)は武塔天神ともされた。
そのことは、『伊呂波字類抄』に、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう」と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた」という説話が記されていて、これに「われはハヤスサノヲの神(速須佐雄能神)なり」と云ったとあることによる。
『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともありまして、古くより、牛頭天王と武塔神が、スサノヲ命(素戔嗚尊)と習合されていたことがわかる。昔は、疫病は死に直結する恐ろしい災厄であった。だから、疫病を鎮める力を持つ神に対する信仰は、大変に篤いものがあった。そうした神様が京都八坂神社の牛頭天王(ごずてんのう)であり、武塔(むとう)神であり、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)であったのだ。
祇園社(祇園御霊会)の「祇園の神」は「牛頭天王」(ごずてんのう)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡ります。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難だ。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうである)。
妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのだ。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月17日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十七)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十七)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、久世駒形稚児の綾戸国中神社は高句麗系か?
山城国の乙訓郡大山崎の南部に高句麗系の移住民らが開発したといわれる「高麗田」がある。彼らが淀川を船で溯って山崎津に上陸しこの土地を開墾したのがその由来とされている。近くの天王山中腹の大念寺の過去帳には、高麗屋の屋号の遺名が散見している。
天王山の中腹には橘氏の氏神を祀る酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ、乙訓地方で最も古い神社、祭神:山崎神・橘氏の主神)があり、その後「天神八王子社」(祭神:大山祇神、素戔鳴尊、他九神)が祀られて「山崎天王社」と称され、山崎山と称されていたこの山も「天王山」と呼称されるようになった。
高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。
いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞鳴尊)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社(京都市南区久世上久世町446)
綾戸国中神社は、昔は綾戸(あやと)宮と国中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に国中宮を祀っている。御祭神は、綾戸宮が大綾津日神・大直日神・神直日神 で、国中宮がスサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)だ。
大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継体天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、上久世の里の産土神として古くより氏子が崇拝してきた。
スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)を御祭神とする国中宮は、神代の頃、午頭天皇(ごずてんのう)=スサノヲ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水と化した時、天から降り、水を切り流し国となし、その中心に符を遣わしたとされている。
その符とはスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされている。この形見の馬の頭(駒形)が国中宮の御神体として祀られている。
夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉します。七月十三日:稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)、七月十七日:稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)、七月二十四日:稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月16日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十六)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十六)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と八坂造
八坂の地の八坂郷(※注1)は、山城国愛宕郡を構成する十三郷のひとつで、東山の麓にあり、坂が多いことから八坂と名付けられたそうだ。東山の西麓には、かなり古くから有力な集団がいたようである。
このあたりは、四世紀後半から五世紀代にかけての首長墓も多く存在する。また、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられる。
八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったことに始まると伝えている(※注2)。伊利之(※注3)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖である。
(※注1) この八坂の地は高句麗系氏族ゆかりの場所でもあった。京都のある山城国は、秦一族によって開拓されたが、そのあと高句麗系渡来人も山城国に入り、秦氏には及ばないが、今もその足跡を多く残している。
『日本書紀』の欽明天皇二十六年(五六五)条に、「高麗人頭霧 耶陛等、筑紫ニ投化テ山背国ニ置リ。今ノ畝原、奈羅、山村ノ高麗人ノ先祖ナリ。」とある。これらの場所は、奈良に接した京都府南部の相良郡のあたりに推定され、かって大狛、下狛の二郷があり、今も地名に残っている。
ここは渡来系の狛造氏のいたところだ。今はない高麗寺や狛寺も、狛造氏によって建てられたものであろう。また、高麗国使のための施設である相良館があったことも、『日本書紀』に記録されている。
(※注2) 八坂神社のおこりは、斉明天皇二年(六五六)、高句麗の副使の伊利之使主が素戔嗚尊(須佐之男命)を八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのにはじまるという。六世紀以前、山城国に入ってきた高句麗系渡来人が相良郡に定住していて、そういう背景のうえに八坂神社が祀られた。やがて平安京に遷都して、高麗氏族の主流も八坂郷に移ったのであろう。
(※注3) 八坂神社の祭祀は、古くには八坂造の子孫が務めていたようだ。伝わる系図によれば、伊利之の子・保武知は山背国愛宕郡八坂の里に居住して八坂造を賜り、八坂保武知と称した。以後、子孫は八坂の里に住したという。
そして、真綱に至って、紀長谷雄の曾孫忠方の娘を妻として、二人の間に生まれた貞行は剃髪して行円を名乗り、永保元年(一〇八一)祇園社執行となる。以後、かれの子孫が代々祇園社執行を務めたとある。しかし、伝わる系図は中世の頃で途切れている。おそらく、中世になる比叡山の末寺として、執行職が派遣されていたものと考えられる。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月15日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社の起源(2)
「祇園社」自身は、貞観十八年(八七六年)に南都の僧円如(一説には、常住寺の僧)が播磨国「広峯」(※注2)に祀られていた天竺の祇園精舎の守護神であった「牛頭天王(ごずてんのう)」を八坂郷の樹下(現在地)に移した「祇園堂」が始まりとされている(※注3)。牛頭天王が素戔嗚尊(すさのおのみこと)になって現れたともいわれている。
平安時代初期の元慶年間(八七七-八八四)、摂政・藤原基経(もとつね)がこの地に精舎・「観慶寺感神院」を建て、境内に本殿・「祇園天神堂」を設けた(承平四年・九三四年、「感神院社壇」を建立したとも伝えている)。
しかし、この神社が京の都人と深い関係をもち、規模が大きくなるのは何といっても「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)(のちの祇園祭)」が始まってからだ。「祇園御霊会」の成立は貞観十一年(八六九)とも天禄元年(九七○)ともいわれている。
(※注1) 八坂神社という社名は、意外と新しく、慶応四年=明治元年(一八六八)三月の神仏分離令により、その五月、「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」と布告されたことによる(『太政類典』。
このとき祭神名も、仏教的・道教的な牛頭天王(ごずてんのう)・婆利女・八王子から、純神道の(神速)素盞嗚尊(かむはや・すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(はしはしらのみこのみこと)に改称された。
明治以前は、「感神院祇園社」ないしは単に「祇園社」と呼ばれてきた。だから、京都の人々は、今でも親しみ見込めて“祇園さん”と呼ぶ。それが、京都東山の八坂郷にあるところから、正式には「八坂神社」と称されることになったのだ。
(※注2) また、正史の『三代実録』貞観八年(八六六)七月十三日条に「播磨国の無位速素戔嗚尊神・・・従五位下を授く」とみることができるので、播磨に貞観以前より素戔嗚尊神を祀る神社があったことは確かなようである。それが広峯社(現姫路市内)であったようだ。
さらに、もと、北白川にあった東光寺の鎮守社である東天王社(現在、京都市左京区岡崎東天王町の岡崎神社)は、『改暦雑事記』(室町後期の成立)によると、貞観十一年、播磨から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して祀ったと伝えられている。
(※注3) 今日の八坂神社に直接に繋がる社祠ができたのは、平安時代に入ってからのようだ。その根拠は、鎌倉末期頃も成立とみられる『社家条々記録』に、「当社草創の根元は、貞観十八年、南都の円如上人、始めてこれを建立す。これ最初の本願主なり。」とあり、また同じ頃の『二十二社註式』(吉田家伝来の記録類には、「牛頭天王は、初め播磨の明石浦に垂跡して広峯に移り、その後北白川の東光寺に移り、その後、人皇五十七代陽成院の元慶年中、感神院に移る」とあり、さらに平安末期か鎌倉初期の『伊呂波字類抄』には「祇園・・・貞観十八年、八坂郷の樹下に移し奉る」と記されている。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月14日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十四)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十四)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社と祇園祭
四条通を鴨川を越えてまっすぐ東へ、東山通に突き当たった正面に見える赤い楼門が八坂神社の西門で、この場所を京都の人々は「祇園石段下」と呼ぶ。
八坂神社は、江戸時代まで「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれてたが、明治の「神仏分離令」によって仏教的な色合いが排除され、土地の旧称に従って「八坂神社」(※注1)と改称された。しかし、京都の人々は以前の通り、普通は「祇園さん」と呼んで親しんでいる。
八坂神社の夏祭りといえば「祇園祭」だが、こちらも明治維新の神仏分離令により、「祗園御霊会」(※注2)は仏教色を薄めて「祇園祭」と称されることになった。また、明治十年(一八七七年)、旧暦六月の七日と十四日であった祭日が、新暦七月の十七日(前祭)と二十四日(後祭)に固定された。
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社の起源(1)
八坂神社の創立については、『八坂郷鎮座大神之記』に「斉明天皇二年(六五六)、高麗から来た調進使の伊利之(いりの)が新羅国の牛頭山(ごずさん)にいます須佐之男命の御魂をもたらして八坂に祀ったという記述が『八坂社旧集録』に引用として記されてる。
このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」『日本書紀』神代紀の一書には「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。八坂神社は、七世紀斉明天皇の頃に開かれ、社殿は天智天皇の頃に造られたとされているが、多少疑問が残る。
(※注1) 八坂神社という社名は、意外と新しく、慶応四年=明治元年(一八六八)三月の神仏分離令により、その五月、「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」と布告されたことによる(『太政類典』。
このとき祭神名も、仏教的・道教的な牛頭天王(ごずてんのう)・婆利女・八王子から、純神道の(神速)素盞嗚尊(かむはや・すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(はしはしらのみこのみこと)に改称された。
明治以前は、「感神院祇園社」ないしは単に「祇園社」と呼ばれてきた。ですから、京都の人々は、今でも親しみ見込めて“祇園さん”と呼ぶ。それが、京都東山の八坂郷にあるところから、正式には「八坂神社」と称されることになったのだ。
(※注2) 「祗園御霊会」は、遡れば、すでに「祇園社(天神堂・感神院)」創立以前の貞観十一年から八坂の地で行われており、それを機縁として「祇園社(天神堂・感神院)」が移されたとも考えられる。しかし、京内に「御旅所」を設けて神幸祭・還幸祭を行うようになったのは、約一世紀後の天延二年からだ。
しかも、その翌年、円融天皇が御願報賽のため、奉幣の勅使を遣わした。これにより、「祗園御霊会」は「官祭」になったと考えられる。
「祗園御霊会」は神仙苑における「御霊会」が政争に敗れて誅された「怨霊=御霊」に対して行われたが、八坂における「祗園御霊会」は「怨霊=御霊」とは関係なく、むしろ古来の「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」などのような、恐ろしい疫病を左右する疫神を鎮め慰めるものであったようだ。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月13日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十三)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十三)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王(ごずてんのう)
祇園社(祇園御霊会)の祭神は「牛頭天王」(ごずてんのう)(※注1)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)(※注2)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難である。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。
妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのである。
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王はなぜ、牛の頭?
インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。
その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。
天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするのだが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのかもしれない。そうしたことから、牛・馬は神社と深い因縁があるようだ(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残である。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納された)。
古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした。また、「牛」と菅原道真公(丑年生まれ)の関係も天神信仰に少なからずあるのかもしれない(「菅原道真の謎、怨霊伝説から天神信仰へ」を参照)。
(※注1) 牛頭天王(天竺の牛の頭に似た「牛頭山にいたと伝えられ、そこにあった栴檀が熱病に効くところから、疫病などを防除すると信じられた)は別名「武塔天王」(武装して手に塔を捧げ持つ毘沙門天と同体異名とされる)とされるが、牛頭天王=武塔天王は、スサノオ命(須佐之男命・素盞嗚尊)であると見なす所伝が古くからある。
(※注2) 八坂神社の創立については、『八坂郷鎮座大神之記』に「斉明天皇二年(六五六)、高麗から来た調進使の伊利之(いりの)が新羅国の牛頭山(ごずさん)にいます須佐之雄尊の御魂をもたらして八坂に祀ったという記述が『八坂社旧集録』に引用として記されている。
このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月12日
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十二)
◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十二)
◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王
スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)はその神威(霊威)の強大さからなのか(古代の人は、『記・紀』神話の荒れすさぶる神・スサノヲ命が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話を通して、スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう)、牛頭天王(疫神=疫病払いの神)と習合(同体化)する。
同体化は、八坂神社創建(※注1)の時点に遡りる(もしかすると、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)このように疫神(疫病払いの神)・農耕神・雷神・水神として崇拝されていくのである。
八坂の地では、古くから八坂氏(※注1)が農耕守護の「天神」(雷神)を祀っていた(古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした)。
しかし、平安京の成立により人口の急増をみて疫病流行などの恐れが多くなり、そこで、それを防ぎ除くために、貞観十一年頃、牛頭天王(素戔鳴尊神)が播磨の広峯社(現姫路市内)(※注2)からいったん北白川(東天王社)へ勧請し、それから間もなく(貞観十八年)、南都の僧(一説によると、常住寺十禅師)円如が八坂の現在地に堂宇を建て、そこへ牛頭天王(素戔嗚尊神)を移し祀ったとされている。
八坂神社は社名も幾度も変わり、その実体を捉えるのは困難だ。雨乞いなどの天神信仰、疫病祓い、怨霊鎮めの御霊会、修験道や陰陽道などあらゆる信仰が混淆していくうちに、名に負う祇園精舎の守護神・牛頭天王(※注3)が主祭神になっていったものと思われる。
(※注1) 八坂の地の八坂郷については、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられている。
八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖である。
このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。
(※注2) 正史の『三代実録』貞観八年(八六六)七月十三日条に「播磨国の無位速素戔嗚尊神・・・従五位下を授く」とみることができるので、播磨に貞観以前より素戔嗚尊神を祀る神社があったことは確かなようだ。それが広峯社(現姫路市内)であったようである。
さらに、もと、北白川にあった東光寺の鎮守社である東天王社(現在、京都市左京区岡崎東天王町の岡崎神社)は、『改暦雑事記』(室町後期の成立)によると、貞観十一年、播磨から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して祀ったと伝えられている。
(※注3) インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。
その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。
スサノヲ(スサノオ)