◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十八)

スサノヲ(スサノオ)

2006年08月12日 12:00




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十八)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、松尾大社の祭神・中津島姫命(市杵島姫神)と宗形海人(1)

 『本朝月令』松尾祭事所引の『秦氏本系帳』に次のような記事がある。「秦氏本系帳に云く。正一位勲一等松尾大社の御社は、筑紫胸形に坐す中部の大神。戌辰年三月三日、松埼日尾(又日埼岑と云ふ)に天下り坐す。大宝元年、川辺腹男秦忌寸都理、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹女秦忌寸都賀布、戌午年より祝(はふり)となる。子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十年。」とある。

 このように松尾大社の祭神は、大山昨神の他にもう一座、中津島姫命が戌辰年三月三日に「松埼日尾」に降臨したとしている。その後、大宝元年(701年)に秦忌寸都理が「松埼日尾」から松尾に勧請し、社殿を営んで、知麻留女に奉斎させ、その子・秦忌寸都賀布以降、子孫が代々祝となったという。

 松尾大社の祭神を、筑紫胸形に坐す中部の大神と記されているが、この神は今の福岡の宗像三神の市杵嶋姫命を指す。大山昨神と一緒に祀られていたのが日吉大社の鴨玉依姫ではなく、宗像三神の市杵嶋姫命であることは大変興味深いことだ。

 なぜ市杵嶋姫命が祀られたのであろうか。桂川(大堰川)の右岸の岩田山に、古い創建の市杵嶋姫命を祀る櫟谷(いたに・いちたに)神社と宗像神社(天智天皇=668年に筑紫の宗像から勧請されたと伝えてる)がある。

 このことは、松尾神の磐座祭祀の時代から、市杵嶋姫命が近くに祀られていたことを示し、大宝元年(701年)に神殿が造営された時に、改めて松尾大社にも祭祀されたものと考えられる。

 ではなぜ、秦氏の本拠地とされる葛野の地に市杵嶋姫命が祀られていたのであろうか。

 秦氏が宗像神を信仰する理由については、秦氏が渡来人として大陸との通交上、宗像神を「道主貴(みちぬしのむち)」として信奉していたものと考えられる。秦氏(秦=パタ=海とも)が朝鮮半島からの渡来人であるということを考えると、関連があるのかもしれない。

 このことは、宗像神を奉斎する集団が渡来に際して神と共に移住してきた状況を推測させる。宗像神は海路守護の海上神であり、筑紫国宗像郡は海外文化・人物に受け入れ口であることを考えると、松尾の秦氏が玄海灘の宗像を経由して山城国に至ったとも考えられるのだ。すると、松尾大社は山の神・大山咋神と海の神・市杵嶋姫命と、海と山の両神を祀る神社ということになる。

 ではなぜ、大宝元年に宗像神が勧請されなければならなかったのであろうか。大宝元年というのは『大宝律令』が出来、祭神を律令制度の中に位置付けようとした年だ。

 ここで大山咋神と市杵嶋姫命の結婚が行われたとも考えられる。これは、天武天皇が胸形徳善の娘の尼子娘を娶って高市皇子が生まれて以後、宗像の神は全盛期となったことと関係がありそうだ(宗像神社は全国に6000社余も分祀され発展する)。

 胸形君とは後の宗像氏のことで、この当時すでに中央にかなりの影響力を持っていた(神功皇后は朝鮮征伐の際、宗像神の神威をかりたと伝えられている。宗像神は玄海灘一帯の海人族の崇敬をうけており、宗像の地は大化改新以降「神郡」となる)。

 また天武十三年には「朝臣」の姓を賜っている。宗像(胸形)氏も秦氏と同様に、新羅・加耶から渡来した産鉄氏族であったのであろう。

 また、中央に祭官として出仕した壱岐氏は、壱岐で祀っていた月神を山城国葛野郡に移して月読神社を祀る。葛野坐月読神社は松尾大社の第一摂社であり、壱岐氏が奉斎する神社であることを考えると興味深いことだ。

 葛野の秦氏は豊前国の秦部(宗像神は最初、宇佐島に降臨したとも)と祖先伝承など何らかの関係を持ち、その関係が大宝元年になって強まり、宗像神の勧請という事態に至ったのではないかとも推測できる。

 そして秦氏と宗像大社(秦氏と宗像氏)との関わりからか、磐座信仰の宗像神を日埼峯に降臨させたのが、『秦氏本系帳』の伝承となったとも考えられる。

 さらに、当時の文武天皇の御世の政策は、律令国家整備の一環として、地方諸国への支配体制を整え始めていた時期でもあり、朝鮮半島と北九州との関係も頻繁となっていた。こうした様々な要因が山城国葛野郡に影響を及ぼしたのであろう。


スサノヲ(スサノオ)

関連記事