◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)

スサノヲ(スサノオ)

2006年08月07日 18:00




◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十六)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、月神(月読神・月読神尊)を祀る葛野坐月読神社(4)

 『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条に、阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣したことが、「『我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に奉(つかまつ)れ。若(も)し請(こひ)の依(まま)に我に献らば。福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏(まう)す。奉るに歌荒樔田(あらすだ)を以てす(歌荒樔田は山背国葛野郡に在り)。壱岐県主の祖先押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ」とあり、この託宣した月神は壱岐の月読神社の祭神(壱岐海人の海を支配する荒ぶる神。『先代旧事本紀』では天月神命、壱岐県主の祖神)とみられ、葛野坐月読神社の月読神は壱岐から勧請されたと考えられる。

 壱岐(芦辺町国分東触)には、月読神社(旧無格社、古称は清月、山の神)が鎮座する。祭神は中:月夜見尊、左:月弓尊、右:月讀尊とあり、芦辺港から西へ、約2キロメートルの山の端に鎮座する。

 この月読神社は古来、清月・山の神と呼ばれており、山の神を祀る神社であったが、延宝年間に、延宝の神社改めの際、平戸藩の国学者橘三喜によって、深月・清月の地名から月読神社とされた。しかし、この月読神社には古い由緒がなく、以前はただ「山の神」と称しただけであったようだ。

 では本来、月読神社は何処にあったのであろうか。『式内社調査報告』では、箱崎にある八幡宮の相殿に、天月神命が祀られており、棟札にも「箱崎八幡宮月讀宮・・・」と記されているところから、原初の鎮座地は「オンダケ山」(男岳)であったと考証されている。また、箱崎八幡宮の宮司が壱岐の古い社家(壱岐氏)であることも、月読神社の有力な根拠となっている。

 また、この月神の託宣(『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条)に続いて日神の託宣があるが、それは対馬にある阿麻テ留(あまてる)神社の祭神とみられている。

 さらに、この日神・月神二神が我が祖(みおや)と呼んだ高皇産霊は、対馬の高御魂(たかみむすび)、壱岐の高御祖(たかみおや)とみられている。

 このことからも、古くから対馬の古族(対馬県直)は日神を祀り、壱岐の古族(壱岐県)は月神を祀っていたことが知られ、それは亀卜と関係していたものと考えられていた。

 そして、壱岐の月神に山背国葛野郡の歌荒樔田を献ったということは、壱岐県主の一族が中央に出て朝廷の卜部(うらべ、卜部氏は卜兆の職掌に携わった氏族で神祇官に出仕し卜占=亀卜や祓に従事した)となったことから、その祭祀を畿内に遷したときの所伝とみられている(『記・紀』の神統譜に持ち込まれたのか)。

 また、日本神話の天照神は対馬、月読神は壱岐を本祀としたものとも考えられ、ムスビ(皇産霊)の神も対馬・壱岐二島にあり、神道の形成時に卜部が重要な役割を果たしたものと考えられる(任那滅亡の時期、朝鮮半島に対する対馬・壱岐の重要度が増し、卜部が中央祭祀に関わる)。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 対馬や壱岐は日本列島と朝鮮半島との間に位置し、大陸との文物交流・海上交通の中継地として古代より重視されてた。式内社も多く、神祇官の亀卜を担当する卜部氏の出身地でもある。

 対馬や壱岐は本州の影響から隔てられていたため、神社形態も発展せず、聖地信仰的要素の強い小祠が圧倒的である(社殿・神体を伴わない亀卜を中心とする祭祀形態)。しかし、これは古代の神祇信仰の形態が保存されされているとみることもでる。

 また、天道信仰(日神とその子の天道=天童にまつわる日神・祖霊・穀霊信仰であり東洋的祭天の古俗、天道地は一種の聖地信仰)や岳信仰には中国大陸・朝鮮半島の影響もみられる。

 ムスビ信仰としての高御魂神社と神御魂神社、日神信仰としての阿麻テ留神社、月信仰としての月読神社、海神信仰としての和多都美神社、天神信仰としての天神多久頭多麻神社など古い信仰形態(神道の原形)を多く残している(アマテラスとスサノオ命の葛藤・対立関係は、対馬の古邑に天神と雷神が対照的に祀られている状況に関わりがあるのであろうか)。


スサノヲ(スサノオ)

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