◆スサノヲ命(素戔嗚尊)と祇園祭(祗園御霊会)の謎(一)

スサノヲ(スサノオ)

2006年06月29日 00:00




◆スサノヲ命(素戔嗚尊)と祇園祭(祗園御霊会)の謎(一)

◆◇◆京都祇園祭(祗園御霊会)、京の祭りの特徴

 京都では、大きな祭りは春から夏に集中する(葵祭・祇園祭・大文字送り火・愛宕の火祭り等など)。これは他の地域における一般的な年中行事のサイクルとは異なっている。

 一般的な日本の祭りは、農耕のサイクルによって年中行事が構成され、その結果、春の田植え前と秋の取入れ後に大きな祭礼が営まれることが多いのだ。

 特にその年の収穫を感謝し、翌年の豊饒を祈願する意味で、秋の農作業が一段落する時期に最も盛大に祭りが行なわれるケースがほとんどである(日本古来の氏神祭祀などは、祈年・新嘗両祭を中心に春秋二季の祭りとなる)。

 では、京都における祭りのサイクルはいったい何に基づくものなのであろうか(何によって決まるのであろうか)。

 昔は、春から夏にかけて疫病が蔓延し、人々は、為すすべもなく恐怖に慄くばかりであった。では、古代の人は、疫病を何ゆえに生ずると考えたのであろうか。

 漠然とではあるが外から忍び込む「災厄」の何者かであり、それは「疫神」の仕業だと考えていたようだ(※注1)。また一方では、政争などにより非業の最期をとげた者の霊が、怨みを晴らすため(怨霊)、この世に疫病などの災いをもたらすと考えたようなのである(※注2)。

 具体的に対策が取られるようになったのは、京都(山城国)に平安京が遷都されてからのことである。平安京では為政者は政争にあけくれ、多くの貴人が非業の死を遂げた。人々は怨みや未練を抱きながら亡くなっていった怨霊を恐れ、その結果「御霊信仰(怨霊を鎮め慰撫して災厄を祓い清める祭礼)」が生まれてくる(※注3)。

 もしかすると、時代は崇りを求めていたのかも知れない。人々は、為政者への天罰、怨霊の復讐を待ち望んでいたのかも知れない。一方の為政者も、密かにさもありなんと心のどこかでは「待ち望んでいた」のではないだろうか(だからこそ「崇り」が成立するのである)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)御霊会以前、『神祇令』の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』には、季春(旧三月)の恒例祭として「鎮花祭」(疫神が飛び散り、人々に疫病をもたらすことを抑え鎮める祭り。大神神社・狭井神社などで行われています)、季夏(旧六月)の恒例祭として「道饗祭(みちあえさい)」(疫神は外から入ってくるものとされ、京城の四隅や国堺(国境)で侵入を防ぐ祭り。県神社などで行われています)を疫神祭として説明しています。

(※注2)春から夏前の時期に「御霊会」が行なわれるのは、この頃が一番疫病の流行しやすい季節であったからである。現在でも六月から七月に梅雨明けするまでの時期は、もっとも食中毒や伝染病が逸りやすい時期だ。

 またこのことは梅雨の集中豪雨による河川の氾濫とも関係がある。すなわち、鴨川や桂川などの京都の河川は、かつてはよく氾濫した。河川の氾濫は水害であると同時に、その後には伝染病の流行という二次的な被害をもたらすことは今もよく知れていることである。

 つまり、天災による災厄と疫病の流行とは、常に一体のものであり、ゆえにこのような時期に、災厄や疫病の招来の根源とされている御霊を祀り、京の町の平安を祈願したのである。医療の方法もほとんどなかった当時としては、神仏に加護を求めるだけが頼りであった。

(※注3)御霊信仰のはじまりは、桓武天皇の廃太子、早良親王(崇道天皇)であったとされている。為政者への天罰、怨霊の復讐といった集団幻想が御霊信仰を生み出していく。このときから御霊会が始まり、平安京の都人を恐怖に落とし込んできた。

 疫病の流行や各地方で争乱が勃発し、朝廷はほっておけない社会的出来事になってくると、官民挙げての御霊会が行われるようになっていく。


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