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2006年08月01日

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十二)

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十二)


◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(十二)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大和国葛城郡の高天彦神社と葛城氏(3)

 大和朝廷は国家統一の過程で、周辺の豪族を連携または平定し、領土を拡大していった。また、葛城族と葛城の地もそうした過程を踏んで大和朝廷に組み込まれていったと思われる。

 葛城の背後に聳える二つの山からの伏流水で豊かな水に恵まれ、古代より文明の発達する条件に恵まれた所であったようだ。

 また、この地は朝鮮半島からの進んだ文化を取り入れやすい要地でもあり、朝鮮半島から北九州を経て、瀬戸内海を通り上陸して水越峠を通ると、そこは葛城の地である。これは葛城の葛城族に半島文化をもたらした、あるいは葛城族が辿り着いたルートの一つであったと思われる。

 葛城王朝を樹立したのは、葛城山下の平坦地(この地は鴨族が先住開拓していた土地であり、後に事代主神を祀る鴨族を政治的結合か服属したようだ)であった。

 葛城王朝の崩壊の後、この王朝の最後の王であった開化天皇の異母弟、彦太忍信命の子孫から武内宿禰が出たとされ、彼の功績によって葛城氏を再興する機会を与えられ、その子の葛城襲津彦が葛城氏の本宗として地位を築き上げたとされている。しかし、この葛城氏の本宗も数代にして亡び、それに代わって一族の蘇我氏が後に台頭するのである。

 葛城氏の系譜では、高天彦(高御産巣日神・高皇産霊神)を祖神としている。したがってこの神を祀る所が、またこの部族の居住地でもあったと考えられる。

 金剛山(古代に葛城山と呼ばれる)の中腹に、葛城の五大社の高天彦神社(延喜の制では名神大社。月次・相嘗・新嘗)がある。この神社は高天原旧蹟という伝説があり、葛城王朝発祥の地として鳥越憲三郎から注目された所でもある。この祭神が高天彦(高皇産霊神)だ。

 ところで、高木神(高皇産霊神)から派遣されてきた八咫烏は、『日本書紀』では、神武天皇即位の後の論功行賞で、「頭八咫烏また賞に入る。その後裔は葛野(かつぬ)の主殿縣主部(とのもちあがたぬしべ)これなり」と出ている。

 大和国葛城地方にいた鴨氏(葛城氏と同族)は、葛城から山城の賀茂岡田から乙訓・葛野、更には現在の上賀茂神社の辺りへと移住したという。この時、人々の移動と共に丹塗矢や神武天皇と玉依姫の伝承、高木神の信仰や文化などが山城の地にもたらされたのかもしれない。

 実は、藤原氏の前身である中臣氏も高木神(高皇産霊神)の信仰を持っていた。葛城氏も前述のように高天彦(高皇産霊神)の信仰を持っていた。

 あるいは葛城氏(4~5世紀、葛城氏の勢力は大臣の外戚・大臣として大変なものであった。『記・紀』では同じく武内宿禰を始祖とする紀・平群・巨勢・蘇我氏がいる。また、蘇我稲目は没落した葛城氏の女と結婚しており、もうけた二人の娘を欽明天皇に差し出している。王権の統一を回復した欽明天皇は、かつて大王たちに后妃を独占的に提供していた高貴なる葛城氏の血を欲していたようだ)の神であったからこそか、『記・紀』編纂を主導する藤原氏は「高皇産霊神」を天皇家の最高神の一つとしたのである。

 それどころか、天孫降臨で高木神が果たす役割は、地上での藤原不比等そのものであった。もしかすると、高木神も藤原氏によって葛城氏からの吸収され取り込まれたのかも知れない。

 藤原氏(中臣氏改め藤原氏となる)によって行われた『記・紀』の編纂、「古典神道」の確立は「宗教改革」と呼んでよいほどの大変革であった。

 その目的は、天皇家と藤原氏に連なる神々を「天つ神」、豪族に連なる神々を「国つ神」に系譜づけることであった(『記・紀』の神統譜作りの目的は、天皇家と藤原氏のためである)。

 天つ神の首領神がアマテラス(天照大神)であり、国つ神の首領神がスサノヲ命(スサノオ命・須佐之男命・素盞鳴神)とそれを継承したオオクニヌシ(大国主神)とした。

 藤原氏はこの「宗教改革」の中で、標的にしたのが葛城氏の神であったと考えられる。つまり、藤原氏によって葛城氏の神は宗旨や神格が替えられ、一部の神は天皇家と藤原氏に連なる神々へ組み込まれていくのである。

 京都北東部の両賀茂社も藤原氏によって宗旨が替えられた可能性がある(祭神は賀茂別雷命が上賀茂、その母・玉依姫と祖父・賀茂建角身命が下鴨となっており、つまり、藤原不比等が娘を後宮に入れ、その産んだ息子を天皇位につけた姿と同じなのである)。


スサノヲ(スサノオ)


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Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00│Comments(1)京の民俗学
この記事へのコメント
物部、忌部、卜部、安倍(安部)などは天皇家といざこざがあった部族。
これらが落ち延びた里を部落という。
秦氏、賀茂氏(鴨)、中臣氏、藤原氏などは天皇家と共にあった氏族。
どとらも元々渡来人で、どちらも豪族。
特に阿部家の血筋は神武に逆らったナガスネの血筋。

太秦之厳眞:金鷹
Posted by 秦氏の集い at 2011年04月04日 16:34
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