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2006年05月07日

◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(七)

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◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(七)

◆◇◆葵祭(賀茂祭)、下鴨神社と上賀茂神社の謎(七)  

(10)、大和の葛城地方にも、「カモ」(鴨、賀茂)の名を持つ神が祀られている。山城の「カモ」と葛城の「カモ」とは、どういう関係があるのであろうか?

※もともと「カモ」とは平野が山に深く入りこんだ地形のことを指す。葛城の桜草でも有名な高鴨神社(鴨神社の総社、祭神はアジスキタカヒコネ命神)は、葛城族(別名鴨族)の守り神として信仰を集め、また全国に広まる、鴨神社の総社となっている。

 この神社が置かれている丘が、葛城にまだある高城で、神武天皇がここで国見をして「秋津島」と名づけたという。そして高鴨神社は、この秋津島のカモ(平野が山に深く入りこんだ地形)の入り口に突き出た丘に鎮座する。

※葛城を代表する神は、「カモ」(鴨、賀茂)の名を持つ鴨都味波神社の事代主命神と高鴨神社のアジスキタカヒコネ命神である。この二社はそれぞれ「下ガモ社」「上(高)ガモ社」と通称され、「上・かみ」「下・しも」の対になっている。「カモ」という地名は、今では京都の地名として有名であり、そこにも「上賀茂社」「下賀茂社」がある。

※『日本書紀』には神武天皇が葛城付近で国見をされ、ここを「秋津島」と名付けられたとある。また第六代・孝安天皇の宮は「室秋津島宮」だと言う。この宮が葛城の「御諸(室)の高城」である。ここは「カモ(平野が山に深く入りこんだ地形)」の入り口に突き出た丘で、その奥に葛城氏の主神・高鴨の神、上賀茂のアジスキタカヒコネ命神が坐す。このように葛城には少なくとも三つの「高宮」あるいは「高城」があった。

※もともと、「カモ」とは葛城の聖地であった。この崇高なる「カモ」の名が同様の地形を持つ京都北東部にも名付けられたのである。京都の上・下賀茂社は賀茂氏の氏神とされるが、上賀茂社が賀茂別雷命神(かもわけいかずちのかみ)を祀り、下賀茂社が別雷命神の母である玉依姫命(たまよりひめのみこと)と外祖父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の二神を祀る。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年05月06日

◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(六)

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◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(六)

◆◇◆葵祭(賀茂祭)、下鴨神社と上賀茂神社の謎(六)

(9)、『記・紀』神話の「神武東征」説話では、「八咫烏」の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神武天皇を先導して、大和入りを助ける。

 神武天皇は、「事代主神」を父とする五十鈴媛命(媛蹈鞴五十鈴媛命・ひめたたらいすずひめのみこと)を妃とし、その後も妃は「事代主神」を祖とする一族(葛城氏)より選ばれる。賀茂氏と事代主神とはどういう関係があるのであろうか?

※「事代主神(ことしろぬしのかみ)」を祖先とする葛城氏は、殆ど天皇家に后を供給するほど密接な関係にあった。そして、鴨王とは鴨家・賀茂家・加茂家の祖先だとされている。

 下鴨神社の由緒書によると、初代天皇の神武天皇が大和に向う際に道に迷う。そのとき、道案内した「八咫烏」とは、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とされている。

 賀茂建角身命は賀茂家で、事代主神は賀茂家の始祖のようだ。葛城地方に鎮め祀られる下鴨神社(鴨都味波八重事代主命神社)は、鴨族の発祥地として、葛城地方を治め、全国に分布する鴨社(加茂)の源である。

 すると、神武天皇の后が「事代主神」を父とする五十鈴媛命(媛蹈鞴五十鈴媛命・ひめたたらいすずひめのみこと)であることも理解できるのであるが・・・。

 事代主神は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の一にもなっている(大変な扱い方である)。「えびす様」(諸説があるが)こと事代主神が、宮中に大きな地位として祀られているのである。そこには、天皇家の祖先との深い関わりを感じる。

 つまり、アマテラス(天照大神)・スサノオ(須佐之男命・素盞嗚尊)の両系統に分かれた天神・地祇の系統がここで統合されているように・・・。

 天神とは神武天皇の祖先であり、地祇とはその后の五十鈴媛命(媛蹈鞴五十鈴媛命・ひめたたらいすずひめのみこと)の祖先であるという考え方さえ成り立つのかも知れない。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年05月05日

◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(五)

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◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(五)

◆◇◆葵祭(賀茂祭)、下鴨神社と上賀茂神社の謎(五)

(8)、賀茂氏と出雲とは関係があるのであろうか?、出雲には賀茂大神(迦毛大御神・味鋤高彦根神・阿遅須枳高日子命)を祀っている神社(意宇郡葛城賀茂神社)がある。大和の葛城には、味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ・阿遅須枳高日子命・賀茂大神)を祀る神社(高鴨阿知須岐託彦根命神社)がある。賀茂、迦毛、鴨あるいは加茂はすべて同族で出雲と結びつくのであろうか?

※古代豪族の系図を記した『新撰姓氏録』には「鴨県主、賀茂県主と同じき祖(おや)、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)=謚(おくりな)神武、中洲(なかつくに)に向でまさむと欲(おぼ)しし時、山中嶮絶(さが)しくて、まよいたまいき。是に、神魂命(かみむすびのみこと)の孫(ひこ)・鴨建津身命(かもたけつみのみこと)、大なる烏と化如(な)りて、翔飛(とびかけ)り導き奉りて、遂に中洲(なかつくに)に達りたまひき。時(そのとき)に、天皇、其の有功(いさお)を喜(め)でたまひて、特(こと)に厚く褒賞(ほ)めたまひき。八咫烏の号(な)、此れより始(はいま)れり。」とある。

※大国主命と多紀理比売命の子に阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこねのかみ)がいる。別名迦毛大御神といい、『出雲国風土記』によれば意宇郡葛城賀茂神社の祭神である。また『延喜祝詞式』には大国主命が阿遅須伎高孫根乃命を大和の葛城鴨にある神社に遣わしたとしている。阿遅須枳高日子命は阿遅須枳高日子根神とも呼ばれ、書き方は異なるが同一の神である。同様に賀茂、迦毛、鴨あるいは加茂はすべて同族で出雲と強い結びつきを示しているのだが・・・。

※『年中行事秘抄』(1293~98年頃)によれば、「賀茂神社の祭神賀茂別雷神が祖父の建角身命に宴席でお前の父親と思う人にこの酒を飲ませろと言われ、酒杯を揚げて天を仰ぎ、昇天してしまう。昇天した賀茂別雷神の父親は大山昨神であった。別名を火雷神という。」

※『古事記』によれば、賀茂大神(迦毛大御神)について「此大國主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理比賣命、生子、阿遅鋤高日子根神。次妹高比賣命。亦名、下光比賣命。此之阿遅鋤高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。・・・大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主命。」( この大国主神、宗像にいます奥津宮の神・多紀理姫の命を娶りてなす子、阿遅鋤高日子根神。次いで妹・高姫命、またの名を下光姫(したてるひめ)命。この阿遅鋤高日子根神は、今にいう『かもの大御神』なるぞ。・・・大国主神、また神屋楯姫の命を娶りてなす子、事代主命。)と記されている。


スサノヲ(スサノオ)   


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2006年05月04日

◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(四)

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◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(四)

◆◇◆葵祭(賀茂祭)、下鴨神社と上賀茂神社の謎(四)

(6)、下鴨神社は、正式名「賀茂御祖神社」。上賀茂神社は、正式名「賀茂別雷神社」。なぜか、下鴨神社は「鴨」を、上賀茂神社は「賀茂」を使う。どうしてであろう?

※カモ川は、賀茂川と鴨川の二つをがある。地図では賀茂は下鴨神社の糺の森より(高野川合流点から)上流の川(上賀茂神社側)を呼び、下流の川を鴨川と呼ぶ(江戸時代)。「賀茂」「加茂」「鴨」と、その字を変えることで、どの場所を流れているのかを分かりやすくしていたとも考えられる。カモの字は古代から様々用いられてきたが、江戸時代中期から「鴨」と用いる場合は通称下鴨神社である「賀茂御祖神社」を云う。また、「賀茂」は、通称上賀茂神社である「賀茂別雷神社」のことを云う。両社一同に表す場合は「賀茂」となる。

(7)、そもそも、賀茂氏・鴨氏とは、どういった一族なのであろうか?。下鴨神社と上賀茂神と二社あるのはどうしてであろうか?。賀茂氏・鴨氏とは、いつから山城の国で勢力を持ち始めたのであろうか?。

※上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主の後裔である。賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などと文献に記され、神武天皇の東征に際し、熊野路を先導して功績をあげたというヤタガラスの伝説がある。このヤタガラスの建角身命が、鴨県主の遠祖であると伝えている。鴨県主は大化以前から京都の賀茂神社の祠官であったそうだ。

※上社(上賀茂神社は、正式名「賀茂別雷神社」)のものは賀茂氏を名乗り、岡本・松下・林・座田・梅辻・鳥居・小路・森の諸家を分出した。下社(下鴨神社は、正式名「賀茂御祖神社」)のものは鴨氏を称し、泉亭・梨木・鴨脚・滋岡・下田・南大路の諸家を出している。『方杖記』を著わした鴨長明もこの氏人である。

※上・下賀茂社は、基本的に上賀茂神社と下鴨神社に分かれますが、単に賀茂神社と言えば、上賀茂神社を指す。歴史的にも上賀茂神社がずっと古いもので、下鴨神社の祭祀は奈良時代の天平年間頃に始まったものとされている。なぜ下鴨神社が作られたかについては、賀茂一族の力が強すぎるので二つに分けて勢力を削ごうとしたという説や、新たにこの地区の開墾により、神社が必要になったためという説などがある。
 
※創建の年代は賀茂御祖神社略史によると、「創建の年代を特定することは出来ないが、『日本書記』神武天皇二年(BC658)二月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系統《葛野主殿県主部》との氏族の名がみえる。この氏族は、賀茂建角身命の先代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より十一代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が賀茂建角身命を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされる」と記されている。

※『古語拾遣』には、「加茂県主(かものあがたぬし)の遠祖八咫烏は宸駕(いでまし)を導き奉りて、瑞(みず)を菟田(うだ)の径(みち)に顕わしき」とあり、ここではヤタガラスは加茂(賀茂・鴨とも記す)県主の遠祖とされている。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年05月03日

◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(三)

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◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(三)

◆◇◆葵祭(賀茂祭)、下鴨神社と上賀茂神社の謎(三)

(5)、下鴨神社には、「糺の森(糺すの森)」というところがある。また、木島坐天照御魂神社には「元糺の森(元糺すの森)」というところもある。「糺の森(糺すの森)」なぜ「糺す」なのであろうか?

 また「糺の神(糺すの神)」とは、京都下鴨神社の御祭神、東殿「玉依媛命」と西殿「賀茂建角身命」のことであろうか?、「賀茂別雷神」のことなのであろうか?。

 八坂神社の御祭神は、「糺の神(糺すの神)」(八坂神社の祭神・スサノオ命・須佐之男命・素盞鳴尊)とも云う。何か関係あるのであろうか?

※糺(ただす)の森の「ただす」は只州とも書く。賀茂川と高野川の二つが合流して鴨川となる。その合流点にできた三角州を「糺の森」と呼ばれていた。

 後にこの「糺」は「人々の争いを糺す」という地名伝説が生まれるようになった。つい最近まで日本の裁判官の冠や服に糺の森に自生するヒカゲノカヅラの曲線が飾りとなって付いている。「カヅラのようなつる草を解きほぐすように難しい紛争を解決する」の意味からだそうだ。

※源氏物語の中で「憂き世をば 今ぞ別るるとどまらむ 名をば糺すの神にまかせて」と光源氏は歌ってる。また、『枕草子』には「いかにして いかに知らまし 偽りを空に糺すの神 なかりせば」と中宮定子は歌っている。

※下鴨神社は由緒書によると、古代の豪族賀茂氏の氏神で、「賀茂御祖(みおや)神社」と言い、賀茂別雷(わけいかづち)(上賀茂神社の祭神)の母・玉依姫と祖父建角身命(たけつぬみのみこと)を祀るとある。古代に賀茂別雷命(かもわけいかづち)が糺の森で、民衆の争乱を聴き質して調停したと言う伝説があり、下鴨神社は朝廷の尊崇も篤かったと云われている。

※夏至には、この下鴨神社のある糺の森ではちょうど比叡山(四明岳)の方角から太陽が昇る。そして、冬至にはちょうど松尾山の方角に太陽が沈む。さらに、この下鴨神社と松尾山(松尾大社)を結ぶ線の上に「三柱鳥居」で知られる木島坐天照御魂神社の「元糺の森」がある。

※太陽が昇る方向と沈む方向、祖霊が眠る方向を重視するということは、死と再生を表している。また、木島坐天照御魂神社の「三柱鳥居」は、元糺(もとただす)の池に立っている。タダスとは 下鴨神社の森の呼称で、その内の河合神社を指しているそうだ。元糺の森と糺の森を結ぶ直線は四明岳←→松尾山(四明岳は比叡山系の山で、比叡(日枝)山も秦氏に係わりがる。松尾山は秦氏の氏神の松尾大社が鎮座する)の直線になり、ヒエイ山から昇る朝日が「タダサス」(一直線にさす)地であり、冬至に松尾の地に日が沈む。


スサノヲ(スサノオ)   


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2006年05月02日

◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(ニ)

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◆「葵祭」、下鴨神社と上賀茂神社の謎(ニ)

◆◇◆葵祭(賀茂祭)、下鴨神社と上賀茂神社の謎(ニ)

(2)、賀茂別雷命(かもわけいかづち)とは、どういう由来の神様なのだろうか? 賀茂氏とどういう関係なのだろうか?

※下鴨神社の伝説では、賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと)と伊可古夜日女(いかこやひめ)には玉依日子と玉依日売(玉依比売命・たまよりひめ)という御子がいたが、ある日、玉依日売(玉依比売命)が瀬見の小川(賀茂川)で丹塗りの矢を拾って床の上に置くと、男の子が生まれる。その子が賀茂別雷命(かもわけいかづち)で上賀茂神社の御祭神として祀られるわけである。

(3)、下鴨神社の御祭神(東殿)の玉依日売(玉依比売命・玉依日女)は、神武天皇の母の玉依姫とどう関係しているのであろうか?(上流の貴船神社には、神武天皇と玉依姫の伝承あります)

※賀茂神社の御祭神・賀茂別雷神の誕生譚で、瀬見の小川(賀茂川)を丹塗りの矢が流れてきたとなっているが、その流れてきた元は貴船神社の神域であるとも言われている。乙訓や貴船の地には玉依姫と神武天皇神の伝承が残されているところをみると、伝えたのは加茂氏(賀茂氏)であったのであろう。

(4)、この「丹塗りの矢」の伝承は、下鴨神社・上賀茂神社だけでなく、松尾神社にもあり、また三輪山の大神神社にもある。さらに出雲の佐太神社には、金の弓矢を洞窟に射る伝承が残されている。「丹塗りの矢」伝承は出雲系一族と関係があるのでしょうか?

※丹塗りの矢の正体であるが、『続日本紀』風土記逸文には、「乙訓の社にいます火雷神なり」となっていまる(松尾大社の祭神・大山咋という説もある。大山咋は日吉神社の祭神でもある)。火雷や別雷といった雷神は農業には必要な水をもたらす神として古代農民には崇拝されていて、その信仰を神話にしたのが「賀茂伝説」の始まりであるとされているが・・・。

※大山咋命(おおやまくいのみこと)は神統譜によると、スサノオ命(須佐之男命・素盞鳴尊)の孫、大年神(ニギハヤヒ命・饒速日命)の子とされ、山の神であり土木の知識に優れ開拓による国土建設の神様といわれている。丹塗りの矢に変身し、建玉依比売命(たけたまよりひめのみこと)と結ばれた話にあやかり、縁結びの神としてもあがめられており、各地の日枝神社・日吉神社の祭神となっている(日吉大社の山王祭は、大山咋命と建玉依比売命が結ばれて子供が生まれたことを祝う祭りである)。


スサノヲ(スサノオ)  


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2006年05月01日

◆「葵祭」、上賀茂神社と下鴨神社の謎(一)

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◆「葵祭」、上賀茂神社と下鴨神社の謎(一)

◆◇◆葵祭(賀茂祭)、上賀茂神社と下鴨神社の謎

 京都の5月といえば、雅に京の町を巡行する京都三大祭の一つ葵祭が行われる。

 この祭りにはあまり知られることのない神秘的な神事が密かに執り行われる。

 それは葵祭(賀茂祭)で大変重要な「御蔭神事・御蔭祭」(明治初年までは御生・みあれ神事と称していたが、御蔭の地で行われるところからこう呼ばれる)である。

 この神事は下鴨神社では真昼に、上賀茂神社では「御阿礼(みあれ)神事」を真夜中に、執り行われる。この華やかな祭りの裏でひっそりと取り行われる神秘的な神事とは何だろうか?

※御蔭祭(下鴨神社)は、葵祭に先駆けて行われる神迎えの重要な神事(神聖な儀)である。神職、氏子は葵の葉を身につけ、神馬に神霊を迎える御座をのせ比叡山の御蔭神社へと行列する。

 真昼、奥宮として鎮座する御蔭神社から、葵祭の神霊(賀茂別雷神の荒魂・あらみたま)を迎える神事(社殿内で神移し)が行われる。その様子は見学も拝むこともできない、神聖な秘儀である。

※御阿礼神事(上賀茂神社)は御蔭祭同様、新しい神霊を迎える儀式で、深夜、葵を身につけた宮司以下の神職が御阿礼所に設けられた神籬(ひもろぎ)の前で饗饌の儀を行い、奉幣の後、阿礼という榊の枝に神霊を遷す神事だ。

 今も古儀のまま一灯をも許さない浄闇の裡に宮司以下が神事を行う。この神事は神秘で何人の参拝も許さないため(最も神聖な秘儀のため)、非公開となっている。


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